2013年4月30日火曜日

博報堂ブランドデザイン『ビジネスは「非言語」で動く』


バレー部のK先輩から電話があった。去年のことだけど。
娘さんが貯まったカードのポイントを使ってカメラを交換したいという。その選択肢にソニー製とパナソニック製があって、どっちがいいかという話。近々子どもが生まれるということで動画も撮れて、それなりによく写るカメラが欲しかったのだろう。まさにそんな相談の孫請けをしたわけだ。
先日も書いたように頭の中はオリンパスペンになっていたのでNEXに関してもLUMIXに関しても知識がない。さっそく調べてみた。ここでようやくデジカメにはセンサーの大きさによって、35ミリフルサイズ、APS-C、マイクロフォーサーズとざっくり分けられることを知る。オリンパスペンやLUMIXはマイクロフォーサーズでNEXはミラーのついた一眼レフにも使われているAPS-Cだ。くわしい違いはわからない。マイクロフォーサーズはレンズが小さくて、APS-Cだとちょっとレンズが大きい。それとソニーのEマウントってなかなかいいレンズだということはわかった。
そんなわけで先輩にはNEXをすすめたわけだが、その後どうなったかは知らない。
コミュニケーションでだいじなのは雰囲気であるという人がいる。話していることの内容そのものが伝わるのは1割以下で、3割が声が大きさ、残りは話し手の雰囲気だと教えてくれた上司が昔いた。
佐々木俊尚はハイコンテキスト、ローコンテキストという分類をして、コンテキスト、つまりコミュニケーションの背景みたいなものの関与の仕方でコミュニケーションの方法は異なる、みたいなことを言っていた(もともとはアメリカの文化人類学者エドワード・ホールという人らしい)。日本人のコミュニケーションはまさしくハイコンテキストで伝える努力やスキルに乏しくても相手に通じてしまう。まあそんな非言語コミュニケーションがビジネスではだいじだよ、という本だ。
マイクロフォーサーズより、さらに小さなセンサーを使ったデジカメがあることをその後知った。ニコン1とペンタックスQであるが、その話はまた後日ということで。

2013年4月25日木曜日

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』


デジタルカメラはこれまで2台買っていた。
最初は仕事でテキサスに行くのに簡単に撮れるデジタルカメラが欲しいと思って、キヤノンのパワーショットS10という今にしてみるとかなりごっついカメラを買った。2000年頃の話。ズームは35ミリ換算で35-70と比較的穏便な仕様。ワイド端が物足りないといえば物足りない。ニコンの一眼に24ミリを付けていた頃と比べるとあまりに物足りなかった。ちなみに24ミリだとたとえば東京ディズニーランドでミッキー、ミニーに子どもたちが群がって記念写真を撮るときに他の親たちよりももう一歩前に出られるのだ。子どもたちが小さい頃、僕の後頭部はずいぶん多くのカメラにおさまったにちがいない。
2台めのデジカメはやはりキヤノンのIXY DIGITAL 900ISだった。ワイド端28ミリのデジカメは当時それほど多くなかったので、案外迷うこともなく決めた。これは今でも現役で町歩きの友である。
デジカメは消耗品だ。フィルムで撮るときのような緊張感もない。そんな気楽に使えるデジカメを、特にこだわることもなくしばらく使いつづけていた。ところが昨年、尊敬するクリエーティブディレクターKさんの持っていたオリンパスのミラーレス一眼を見て、俄然欲しくなってしまった。そのカメラはオリンパスのペンミニだった。何が気に入ったかというとアクセサリーシューに付いていたファインダーだ。モータードライブやレンズフードなど、実を言うと機械に付けるアクセサリーに僕はめっぽう弱いのだ。ペンミニが欲しいということは、あのファインダーを付けたいということなのだ。
先に記したことだが、「蛍」をもういちど読んでみようと思った。『ノルウェイの森』は「蛍」の延長上にある作品だが、その原点にある短編をもういちど。で、結局一冊まるまる再読してしまったというわけだ。
ただでさえ、儚くみずみずしい長編の原型は旧ザクのように多少の荒っぽさを残しながら、それはそれで味わい深い。
ペンミニ+ファインダーは魅力だが、Kさんとまったく同じカメラを持つっていうのもちょっと癪に障る。どうしようかと頭の中をミラーレス一眼のかけめぐる日々がはじまった。

2013年4月21日日曜日

村上春樹『ノルウェイの森』


家にキヤノンデミというハーフサイズのカメラがあった。
ハーフサイズなんてのももう死語かもしれない。35ミリのフィルム1コマぶんを半分にして撮影するエコノミーな規格のカメラだ。36枚撮りのフィルムで72枚撮影できる。もちろん紙焼きの量も値段も倍になる。
子どもの頃はそのカメラを手に大井町の東海道本線に架かる歩道橋の上や品鶴線という貨物線の沿道で列車を撮っていた。それも小学生までの話。中学、高校あたりになるとそろそろ一眼レフが普及しはじめてきた。簡単なカメラでは恰好がつかなくなってきた。カメラを手にすることはなくなった。
20代の半ばを過ぎて、テレビコマーシャルの制作会社に入って、ふたたびカメラを手にすることになる。もちろん、カメラマンとしてではない。CMもその当時は35ミリ、ないしは16ミリのフィルムをまわしていた。露出であるとか、画角であるとか、カメラの知識が皆無では太刀打ちできないのだ。そんなわけでニコンのFM2という一眼レフを購入した。レンズは会社に何本かあったので、とりあえず50ミリを買った。当然中古である。
以来、基礎教養としてのカメラいじりが、85ミリ、35ミリ、135ミリ、28ミリ、24ミリ…、とレンズを買い足すごとにたちの悪いに趣味になっていく。それも子どもが小さいうちまで。そもそもレンズを何本も持って移動することがつらくなってきたのだ。仕事でカメラを持っていってもフィルムは入れない。画角を見るだけ。
『ノルウェイの森』はもう何度読みかえしたことだろう。
たしかに村上春樹の本流の小説ではないけれど、今でも多くの読者を惹きつけてはなさない不思議な魅力を持った長編だ。今回は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』でそのプロトタイプとして書かれた「蛍」と読みくらべてみようと思い立って、またページを開いてみた。
子どもたちが大きくなってからはもっぱらコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)でカバンのポケットにいつも入れていた。旅行にでも行かない限り、写真はさほど撮らなくなった。
カメラの話はまた後日ということで。

2013年4月7日日曜日

大竹昭子『日和下駄とスニーカー』


一昨年、毎日新聞日曜版に連載されていた「日和下駄とスニーカー」が単行本になって出版されていた。
永井荷風の東京散歩をベースに同じような構成で東京を歩きなおしてみることで『日和下駄』を読みなおすといった試みでたいへんおもしろかった。いくつかすでに歩いた散歩道もあり、まったく知らなかった道もあった。部分的に歩いたことのある町もあった。
圧巻だったのは、上野から山の手、下町を分ける上野台地の崖沿いを歩くルートだろう。谷中から日暮里、田端、上中里を経て王子に至る道筋である。谷中、根津、千駄木を歩いて散歩した気分になっているのはもったいない。ぜひとも急峻な山の手のエッジから右手に下町を臨みながら北上する旅にトライしてもらいたいと思うのだ。とりわけ上中里から飛鳥山公園にかけて京浜東北線沿いに進む道のり(今はあすかの小径と呼ばれ、北区の観光名所になっているらしい)のひっそりとした空気は散策気分を高揚させる。余計なことではあるが、夕刻王子までたどり着いたら、山田屋で軽くビールを飲むこともすすめたい。
四谷荒木町から住吉町を経て、市谷台町、富久町、余丁町あたりも静かな東京が置きざりにされている。市谷台町にはかつて市ヶ谷監獄があったという。今では大久保方面への通りが拡張され、都市的な景観を醸し出してはいるが、一歩脇道にそれると不思議な空間がひろがっている。余丁町まで行ったら、西向天神も遠くはない。ビル群に隠れてこま切れにされた夕日を楽しむのもまた現代的な風情だ。
夕日といえば、目黒に夕日の岡と呼ばれる江戸時代からの名所があったという。たしかにこの辺りは台地が目黒川によって削られ、山あり谷ありの複雑な散歩道をなしている。田道から中目黒へ尾根道を進むのもいい。高い建物が増えたせいで夕日を楽しむチャンスは少なくなったが、逆に東方向、目黒川の向うの都心を小高い坂上から眺めると赤々とした西日に照らされた建物が見える。
このほかにも伝通院や切支丹坂など茗荷谷あたりや四谷鮫河橋など、著者にそそのかされて、東京をずいぶん楽しませてもらった。

秋尾沙戸子『ワシントンハイツ-GHQが東京に刻んだ戦後-』


かなり以前のことだが、プロデューサーのK君が根岸の米軍住宅で車のCM撮影をした。
その敷地内では車は右側通行、法律もなにもかもアメリカ仕様になるらしいことをそのとき聞いた。要するにアメリカでロケ撮影したようなコマーシャルを日本でつくったというわけだ。
そんな施設が東京にもあった。
歴史というものにそれほど首を突っこまなければ意識しないような場所がいくつもある。
日比谷の帝国ホテル前を歩きながら、ここは占領軍の将校クラスの宿舎だったんだと言われても、先の大戦や終戦後の日本にさほど関心がなければ、へえ、そうだったの、で済んでしまう話だ。代々木公園で遊んでいて、ここは東京オリンピックのときの選手村だったんだと言われるとかすかにその当時記憶のある世代には多少興味関心が生まれるが、それ以前はワシントンハイツと言ってね…、みたいな話になるとやはり、へえ、そうだったの、で終わってしまう。
東京の渋谷・代々木一帯に広大なアメリカがあった。
そのことを強く知ったのは山本一力の自伝的名作『ワシントンハイツの旋風』だ。たしかにそれを読んだとき、「代々木公園はずっとずっと昔から、だだっ広い公園だと思っていた」と書いている。もちろんその後もワシントンハイツの存在は気にはなっていたが、なぜ代々木だったのか、そしてどのようにしてこの地は日本に返還されたのかまで知ろうとも思わずにいた。渋谷・代々木だけでなく、東京近郊のいたるところになんとかハイツという施設が存在していた。子どもたちが小さかった頃よく遊びに連れて行った練馬の光が丘公園はグラントハイツだった。
ワシントンハイツの返還が決まったのが61年11月。日本側が全額移転費用を負担するという条件だったという。オリンピック村の完成は64年8月で、『オリンピックの身代金』の島崎国男が労働者として働いて場所でもあった(というのは本の読みすぎか)。
表参道の書店でこの本を見つけた。ページをめくってみると、その本屋からストーリーははじまっていた。

2013年4月5日金曜日

保坂正康、東郷和彦『日本の領土問題』


選抜高校野球の楽しみは成長を感じることではないかと思う。
昨夏、上級生が引退したあとの新チームによる地区大会が各地で行われ、その勝者10校が神宮球場での全国大会に出場する。明治神宮野球大会である。
昨秋は仙台育英が猛打で圧倒した。準優勝の関西も、4強の春江工、北照も春が楽しみなチームだった。もちろん各地区優勝チーム以外も選抜大会には多くの有力校が選ばれる。秋に強かった学校がどれほど強くなって甲子園にやって来るのか、苦杯を喫したチームがどれくらい力をつけて来るのか。こういう視点で選抜大会を観ているのだ。
仙台育英の秋は強かった。桁違いの打力だった。そのまますんなり春も勝つだろうと思われた。秋の地区大会を勝ったチームのうち関西、春江工、京都翔英など5校が初戦で消えた。これも彼らがしかるべき努力を怠ったからではけっしてなく、昨秋敗れたチームが彼らを上回る鍛錬を積んだ結果だと思いたい。
選抜決勝は明治神宮大会組の浦和学院と秋季四国大会4強の済美。浦学の格上感は否めないものの、思わぬ大差がついてしまった。それでも済美の2年生エースはいい。ベスト4に2校を送りこんだ四国勢のレベルを上げているのは打倒安樂への意気込みかも知れない。
領土問題についてはあまり関心がなかった。これからの時代、領土であるとか主権であるとか少しは学んでおくべきだろう。以前一冊読んでいたが、さらに現代的な視点を加味したこの本を手にとった。
共著者の東郷和彦はとりわけ北方領土問題解決に向け、幾多の施策を試みてきた人と聞く。志なかばで外務省を退官されたのは残念なことだが、それ以降も内外の大学で教鞭をとるなど、この問題について引き続き、活躍されている。
東京では1日から春季大会がはじまった。夏は遠くない。