2006年9月13日水曜日

湯本香樹実『西日の町』

母方の祖父は千倉町の実家に飾られた遺影でしか、顔を見たことがない。母が中学生の頃だから、おそらくは40代で他界している。
どこの家でもそうとはいえないが、母方の祖父母、きょうだいに関しては子どもたちに話して聞かせる機会が多いせいか、多少なりともイメージ構築がなされているものだ。
ぼくの祖父は漁師の町で数少ない陸者で大工だった。写真を見てもわかるのだが、なかなかの男前で、戦争に行っていた頃は軍服を颯爽と着、馬を乗りこなしていたという。
母ひとり子ひとりの家庭で育った主人公の「僕」と母親、そして祖父の物語が『西日の町』だ。北海道で農地を切りひらき、馬を駆り立て、勇猛果敢に生きた祖父が、息子とふたりで生きるために北九州まで流れ着いた娘のアパートに転がりこみ、やがて衰弱し、死んでいく。
以前読んだ『ポプラの秋』とはちょっと趣の異なる小説で、昭和40年代の、いわゆる高度成長期と呼ばれる時代の影の部分が妙になつかしく、無彩色の風景が脳裏いっぱいにひろがり、切なくなる。
こうした豊かさの光が注がれなかった貧しさ、古きよき時代の負の情景とそこに必死で生きる人の群れを当時の少年たちはちゃんと語り継いでいるのだろうか。

2006年8月19日土曜日

デイヴィッド・オグリヴィ『ある広告人の告白』

何を思ったか、突然甲子園で高校野球が観たくなった。会社を休んで早朝ののぞみに乗った。かれこれ40年近く野球を観ているが、甲子園は初めてだ。その巨大さ、暑さに圧倒されながら準々決勝の2試合を観た。
興奮覚めやらぬ帰りの車中でデイヴィッド・オグリヴィの『ある広告人の告白』を読んだ。これはもともと1964年に出版され、最近新版が出されたものの翻訳で広告の世界では古典といっていいのかもしれない。
デイヴィッド・オグルヴィはオグルヴィ&メイザーという広告会社を作ったコピーライター。アメリカの広告クリエイティブを支えてきただけあって、もの言いがシャープでストレートだ。もちろん、60年代のアメリカの広告界がどのような状況だったかをぼくは知る由もないが、成長するアメリカ消費社会とその中での生き残りをかけた広告人の強い姿勢を感じる。
広告会社の経営手法、クライアント獲得の秘訣からクライアントと広告会社とのあるべき関係構築にはじまって、成功する広告キャンペーンの作り方、コピー作成法、写真とイラストレーションではどちらが効果的か、さらには視聴者を動かすTVCM、自ら携わったクライアントから学んだ「食品」「観光地」「医薬品」キャンペーンのポイントと現代にも通ずる部分の多い広告クリエイティブの教科書といえる。
実をいうと広告の仕事に携わっているとはいうもの、日頃あまり広告の本は読まない。ましては古典(と決めつけてしまうのは失礼だが)には縁遠い生活をしている。オグルヴィに限らず、ドイル・デーン・バーンバックやレイモンド・ルビカムなど広告人の教養として読んでおかなきゃいけないんだろうなあ、ちゃんと。


2006年5月8日月曜日

鮎川久雄『40歳からのピアノ入門』

ラジオ講座のフランス語を聴いていて気がついたのだが、スキットの中に携帯電話でのやりとりがあったり、通貨の単位がユーロになっていたり、当たり前といえば当たり前なんだろうけど、時代は着実に変化している。もうひとつ気がついたのだが、この手の語学講座のスキットって台詞と台詞がきちんと整理されていて、つまり、かぶせてきたり、相手の発言を暴力的にさえぎったりしないところが平和でいい。実践的かどうかという判断は別にして。
連休中にこの本を読んだ。これがたとえばラジオ工作入門という本であれば、回路図があって、部品の調達から半田付けのコツまで書かれているのであろうが、なにぶんピアノだ。ピアノの弾き方なんかこれっぽっちも書いてなくて、まあ、言葉悪く言えば、著者のピアノ自慢ってところでしょうか。これとは別に出ている入門書の宣伝本なんですね、きっと。

2006年4月28日金曜日

藤原正彦『国家の品格』

著者の論が今注目されているのは、ややもすれば、誤解をまねかざるを得ない言葉の数々、その意味を問い直すことで、これまで多くの人々が見失ってきたものに光をあてたからだろう。
たとえば祖国愛。国益主義と誤認される愛国心という言葉は使わない。その見識が本書の太い骨格を支えている。さらにはわれわれが盲目的に信仰してきたであろう「近代合理精神」、「論理」、「自由」、「平等」、そして「民主主義」さえもものの見事に斬る。そして本当にたいせつなものは祖国にある、わが国の伝統、風土に根ざしているという。それがたとえば武士道だというわけだ。
君は日々、仕事に追われ、つきあいに追われ、自分を見失っていないか。君の心のふるさとにあるものを忘れてはいまいか。そういうことを語りかけてくれている本なんだなと思った。

2006年4月26日水曜日

清水義範『スラスラ書ける!ビジネス文書』

今月からラジオの語学講座を聴いている。毎年ではないけれど、この時期にはよく聴き始める。が、あまり長続きしない。せいぜい連休あたりで終わってしまうことが多い。5月号のテキストはたいてい使われないまま放置される。果たして今年はいつまで続くやら。
今年は今まで試したことのなかったことに挑戦している。それは2カ国語同時進行だ。フランス語とハングルにトライしている。特に根拠があるわけじゃない。ふたつ学んだほうが効率がいいとか、学習理論的に効果的だとかというわけではない。理由はひとつ。挫折するならまずどちらか。ああ、もうめんどくさいなあと思ってもまさかふたついっしょにあきらめるのは惜しいから、おそらくどちらかひとつは残すだろう、そうすることでどちらかは長続きするだろうという計算だ。われながら非常にせせこましい考え方だ。
清水義範の本はなんどかとりあげているが、今回読んだのはビジネス文書の作法。あまり清水義範とビジネス文書というものがイメージとしてつながらない。これはきっと何かあるのだろうと思い、手にとった。
本文は「週刊現代」に連載されていたものというから一応、ビジネス文書の指南書にはちがいはないのだが、読んでみると案の定、ただの指南書ではない。小うるさいテクニックを口を酸っぱくして熱く語ったり、読書に励めとか、訓練を積めと、センスを磨けみたいなことに頓着していない。むしろ昔の人たちより現代人のほうが文書を書く機会も読書する機会も豊富なのだから、もっとみんな文書を書くことでコミュニケーションしようぜ、みたいな著者ならではの軽妙な応援歌なのだ。
つくづく思うのだが、清水義範は本当に文章が好きな人だ。文章に愛情を持った人だ。著者の、随所に見られる文章に対するきちんとした思い、言うなれば文章愛、みたいなものがあるから、ただの文章作法の本とはひと味もふた味もちがうのだ。

2006年4月21日金曜日

重松清『卒業』

先日、国立科学博物館で開催されているナスカ展を見る。電車の中で見たポスターのキャッチコピー「世界で8番目の不思議」が気に入ったせいもある。
地上絵がどうして描かれたのかはいまだ謎であるが、宇宙人が描いたという説が21世紀になってもまことしやかに残されているのがなんとなくうれしい。
今日は朝から雨模様。昼ごろには嵐になって午後から晴れた。風は一日中強かった。
重松清の『卒業』を読む。映画「あおげば尊し」を観て、読みたいと思っていた本だ。タイトルから、あるいは映画を観た印象から学校ものかと思っていたが、実はそうではない。人の死(重松は人を「ひと」と開くのだけれども)を通じて、あるいは主人公の背負った過去の重荷からそれぞれが卒業していくという大きな、そして身近なテーマが設定されている。例によって泣けるシーンが多い。電車の中で読むにはちょっとかっこ悪いのだが、重松流の重量感あふれる一冊だった。



2006年4月11日火曜日

藤原てい『流れる星は生きている』

藤原正彦『祖国とは国語』の流れで読んだ一冊。
著者が満州から本土へ帰る終戦間際からの記述が本書だ。
よく学校の先生や会社の上司に満州生まれという人がいたが、本土に帰ったときの話をくわしく聞いたおぼえがあまりない。当の本人が小さかったせいかもしれないし、忘れてしまったのかもしれない。あるいは口にしたくないほどの経験だったのかもしれない。おそらく多くの日本人が貨物列車に乗せられ、恵まれていさえすれば牛車で、そうでなければ夜を徹して徒歩で山を越え、川を渡り、ようやくたどりついたプサンから帰還船で祖国日本に命からがら戻ったのだろう。
あるいはかつて聞いたことのあるこの苦難の道のりをこともあろうか僕自身が忘れ去っているのかもしれない。もしそうだとしたらこいつがいちばんよくない。この本を手にしたきっかけは歴史認識のためでもなく、興味本位でもなく、純粋に忘れてはいけないことの再認識である。
ぼくの義父はシベリアから帰還したという。孫であるぼくの子どもたちにとって戦後祖国の土を踏みしめた祖父の経験はたぶんいちばん身近な歴史体験なのではないかと思う。戦争を語り継いでいくためにぼくらができることはこういう本を読み伝えていくことしかないんじゃないだろうか。


2006年4月6日木曜日

本間正人・松瀬理保『コーチング入門』

高校時代に所属していた運動部は伝統的に上下関係がきびしかった。ただそこには一本きちんと筋が通っていたし、先輩は恐いだけじゃなく、尊敬できる人たちだったから、ぼくたちもいずれは自分たちの先輩のような先輩になろうという思いもあった。

昨今のコーチング本を書店でパラパラめくりながら、部下を育てて、コンピテンシーを高めていくのってそんなたいへんな時代なのかよって思ってしまうのだ。個人の能力を高めるために、やる気を引き出すために、周囲の人たちは今こんな苦労をしているんだなと。
一般企業と体育会系学生組織とでは目的の質が異なるわけだし、その意識の共有度合いも当然異なる。世の中には仕事や人生に情熱も持てず、やる気も出ないまま一生を終える人間もいるだろう。そんなときに組織として生産性を高めていく手法がコーチングってことなんだろうね。もちろん人を育てたり、育てられたりすることで、業績が伸びたり、個人の能力が向上するのはいいことだ。心の中ではそんなもんがんがん鍛えて、ぼこぼこしごけばいいじゃないかとは思うものの…。
この本のキーワードは「傾聴」「質問」「承認」。いくつか目を通したコーチング本の中でもシンプルに整理されていて、とりあえずの一冊としてはベストだと思った。


2006年3月30日木曜日

松瀬学『清宮克幸・春口廣対論指導力』

ビジネス書売場ではコーチングと名のついた書籍がめっきり増えてきた。そろそろその手の本も読まなきゃなという年頃なんだけど、ビジネス書なるものを手にしたことがない。どんなグリップで握って、どんなフォームで読んでいいのやら。
その点、スポーツ指導者の話は入り口としてわかりやすい。と思って手に取ったのが、早稲田大学ラグビー部前監督と関東学院大学ラグビー部監督の両氏による対談をまとめたこの本だ。
関東学院の春口氏は教員であり、清宮氏はサントリーのビジネスマン。その対比もおもしろいのだが、春口氏がしゃべりすぎる。実は読者の多くは早稲田躍進の秘密を清宮氏の口から聞きたいはずなのに、なかなかしゃべってくれないこのもどかしさ。そのことに腹を立てる読者もいるだろうが、それはそれで演出だ。実は清宮メソッドのほとんどを春口氏が明かしている。そんな気がした。

2006年3月26日日曜日

藤原正彦『祖国とは国語』

藤原正彦の本が売れているらしい。『国家の品格』という新書が大ヒットだという。そんなこんなで名前を知ったのだが、この人はあの新田次郎のご子息なんだそうだ。ちょっとした文才のある数学者なんだとばかり思っていた。
数学者でありながら、国語教育の重要性を真摯に説くあたりに著者の懐の深さというか、見識の幅広さを感じるのであるが、この本の構成もまた実に巧みだなと思ってしまう。
祖国とは血でも国土でもなく、国語なのだ力強く訴えたかと思うと軽妙な文章で科学をめぐるエッセイを家族という舞台で展開する。そして最後は自らの生まれた“祖国”満州を訪ねる紀行文と実になかなか、なのである。


2006年3月25日土曜日

村上玄一『わかる・読ませる小さな文章』

荻上直子監督の『かもめ食堂』を観た。
フィンランドという土地にまったく予備知識がなかったせいか、とても新鮮な街に見えた。
予備知識といえば、この本の著者村上玄一という人を知らない。知らない人の本のことをとやかく書くのはいかがなものか。

>>本当の強さ(自信)とは「予備知識」をどれだけ蓄えているかということだ

などと書かれてあると多少なりとも作者のことを知らなければと思っていしまう。でもって、奥付を見る。

>>村上玄一(むらかみげんいち) 1949年6月、宮崎市
>>生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒。新聞社、出
>>版社を経て現職。おもな著書に…

えっ。現職ってなんだ?『わかる・読ませる小さな文章』なのにわからないじゃん。
と、まあ、ぼくもそれ以上調べたわけでもないんで、こちらの勉強不足、認識不足ってことで。

この本自体は文章を書く上でたいせつなことが丁寧に熱く書かれている。著者が文章力の向上にどれだけの熱意を込めているかは太目の明朝で本文が綴られていることからもじゅうぶん理解できる。
でも思うんだよね。文章のプロが文章作法について書くのって、そうとうつらいだろうなって。だって人の文章を添削している自分の文章だって誰かに真っ赤に添削される可能性だってあるわけだし。

2006年3月20日月曜日

速水敏彦『他者を見下す若者たち』

仕事がひと段落したら、奥多摩でも散策してみようかと思っている。
青梅線で終点の奥多摩駅に出て、渓流沿いを歩く。吊り橋をいくつか渡って、奥多摩湖畔に出る。おそらくこのあたりにはうまい蕎麦屋があって、山菜料理などをつまみながら、蕎麦をすするのだろう。時間があれば大岳山くらいにチャレンジしてもいい。帰りには温泉にでも浸かってゆっくりしたいものだ。
てなことをシミュレーションしているこのごろ。時刻表をながめて、旅した気分になっていた子どもの頃のようだ。
で、本日読み終えたのは速水敏彦著『他者を見下す若者たち』。
惜しい気がする。とても惜しい気がする。いい着想なんだけど、研究紀要に載せる小論に近いようでいて、未完成だし、新書(実際、新書なんだが)で世に広く問うというスタンスにしては明快さに欠けるかな。
ひとつには「仮想的有能感」というキーワードが言い当ててはいるんだろうけど、世の中的なキーワードとしてはこなれていないことが挙げられる。もっとSPA的な共感、共有可能なワードはなかったのかと思うわけだ。教育心理学者という立ち位置が著者の発想とその展開を阻害したのかもしれない。また、著者によれば「仮想的有能感」の研究はまだ途上であるという。そのせいか「であろう」とか「思われる」が多用され、全体に文章の切れがよくない。それは真面目な教育心理学者である証とも受けとれるのだが、もっと思い切り、仮説を列挙した挑発的な「読み物」をめざしてもよかったんじゃないかとも思うのである。

2006年2月21日火曜日

重松清『きみの友だち』

去年観た内田けんじ監督の『運命じゃない人』でひとつの物語を主人公を入れ替えて描く手法に感心した。
角田光代の『空中庭園』も主人公が入れ替わる連作短編集だったのを思い出した。
この小説も主人公が替わる連作短編。主人公はそれぞれ作者から「きみ」と二人称で呼ばれる。本当の主役である「きみ」は「恵美」なんだけど、「恵美」の思い出の中のおぼろげな存在たちさえもが「きみ」と語りかけられることで脚光を浴び、生気を吹き込まれた存在になる。そして彼らを追って時間軸を飛びまわり、奥行きのあるドラマを形成していく。
と、まあそんなカタチの小説なんだけど、話が重い。いじめとか障害の話は苦手だ。先もある程度読める(いちばん最後の一篇が必要だったかどうかは別として)。
なのに泣けてしまうのだ。

2006年2月6日月曜日

よしもとばなな『王国その3ひみつの花園』

市川準監督の『あおげば尊し』を観た。小学校教諭のテリー伊藤がやはり教師だった父加藤武を看取る話。静かな人間描写の映像が続き、最後はどうなるのだろうと思っていたけど泣けてしまった。
ところで手もとのファイルの中に『王国その2痛み、失われたものの影、そして魔法』を読んだ形跡がない。読んだつもりになって、その3を読んでしまったのだろうか。読んだような気もするし、読んでいないような気もする。たしかに憶えているのは、ついこのあいだその3は読んだということだ。それだけでもよしとしよう。

2006年1月21日土曜日

竹内一郎『人は見た目が9割』

昔、上司にコミュニケーションの7割は声の大きさ、2割は雰囲気、内容は1割だと教わったことがある。「見た目」と呼ばれるノンバーバル・コミュニケーションの割合は以前から着目されていたのだろう。で、どちらかといえばかなり学術的な分析がなされた本だと思って手にとった。正直言ったところ。
実際読んでみると演劇、マンガ(著者の専門分野といえばそれまでだが)からの事例が多く、わかりやすいといえばわかりやすいし、物足りないといえば物足りない。なんでノンバーバルコミュニケーションの比率が大きいのよってところを知りたかったんだけど、それはもっと別の本を読みなさいってことでしょうか。

2006年1月16日月曜日

湯本香樹実『ポプラの秋』

何年か前に梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を読み終えたあと、当時5年生か6年生だった長女にすすめたら、たいそう気に入ったようで以来、娘の書棚に梨木香歩が並ぶようになった。そのときのお返し(?)か、こんどは娘のおすすめ図書ということでこの『ポプラの秋』を読んだ。 ああ、よかったなあ。うちの娘はこんないい本を自分で選んできて読んでるんだなあとひとあんしん。おもしろくても人の気持ちをアンダーにする物語は正直好きではない。重たい小説も本当は好きじゃない。窓から見える木々や草が風にゆらいで、ところどころで太陽の光を反射させてきらきらしている、そんな風景みたいな話が好きだ。