2018年5月13日日曜日

今尾恵介『路面電車』

大都市から路面電車が姿を消した最大の原因はモータリゼーションの進展にあるといわれている。
路面電車という時代遅れの交通システムが都市部の混雑、渋滞を惹き起こしていたというのだ。当時の日本人の考え方からすれば、経済効率と利便性が最優先。本格的に普及していったクルマは最も愛されるべき乗り物だった。
東京をはじめとする大都市では路面電車はこぞって廃止され、バスに代わり、さらに高速交通網として地下鉄道が建設される。クルマが最優先されたのはそこらで見かける歩道橋を見てもわかる。自動車の走行の邪魔にならないよう歩行者を安全に迂回させるルートだ。日本人は誰もが成長していたから、足の不自由な人や小さな子どもを連れたファミリーやお年寄りのことなど考えることもなかったのだろう。「時代の考え」はそうだった。
明治の頃、さかんに鉄道が敷設されていったが、鉄道が通ると農作物が育たないという「時代の考え」があった。鉄道駅から離れたところに市街地をもつ地方都市にはそんな考えが蔓延していたのではないか。
なんでもかんでも新しくすることが日本的なものの考え方ではある。路面電車は古いから新しくする、地下鉄にする。これは日本という国の伝統的美点なのかもしれないが、そうのうちなんとかなるだろうからつくってしまえという発想は戦費もないのにロシアと戦争をはじめた時代から連綿と続いている。
ヨーロッパを旅すると古い建物を多く見る。石造りであったり、レンガ造りであったりする。古い町の景観と同じように路面電車も大切に有効に乗り継がれている。都心部へのクルマを制限して、郊外電車とつなぐという発想が素晴らしい。穴を掘るでもなく、高架線をつくるわけでもないからたいしてお金もかからない。
夢や未来を語るのは自由だけれど、人々にとって必要な交通手段を人間的な視点からきちんと考えて結果を出している。それがLRTという昔からあって新しい乗り物だと思う。

2018年5月7日月曜日

今尾恵介『地図で読む昭和の日本』

実家に古い地図がある。
古いといっても江戸切絵図とか明治時代の古地図ではない。おそらく昭和50年頃の東京23区の区分地図である。昭和時代の地図も1964年のオリンピック大会以前の地図であれば、町名が昔のままだったり、都電が走っていたり、川が流れていたりして、現在と地図と見比べると一目瞭然のおもしろさがある。1970年以降、都電が廃止され、首都高速など現代のベースができあがってからさほど大きな差は見られなくなった。それでも目を凝らしてみると都内各地で再開発が進み、昔あったものがなくなっている。いや、今なくなってしまったものが地図に残っている。
手はじめに新橋あたりを見てみよう。ゆりかもめはまだ走っていない。汐留貨物駅があり、そこから築地市場へ引き込み線が伸びている。新大橋通りに踏切があったのをおぼえている。貨物駅はこのほか、飯田橋貨物駅や小名木貨物駅、隅田川駅があった。今では隅田川駅が半分だけ遺されている。それぞれオフィスビルや商業施設、高層住宅に姿を変えている。
新宿駅西口には京王プラザホテルを筆頭に高層ビルが建ち並ぼうとしている。品川駅の港南口(東口)は今よりずっと東側にあった。大崎駅の周辺は明電舎や日本精工の工場があった。
昔から変わらない町並みや景観もあるだろうが、40年もあればたいがいの町は変り果てる。歳を重ねるとついこないだのように思えるけれど、客観的に見れば町は変貌を遂げて当然なのかもしれない。
この本は地図という尺度をもとに定点観測した町の変わりようを追いかけている。
今あるものが昔からあったわけではなく、今あるからといって未来永劫あるわけでもない。40年前のジャイアンツファンがタイムスリップして今の世の中にやってきたとしても彼は後楽園スタジアムにたどり着けないのである。
おもしろい本だった。町の風景はまるで人生のように無常だ。
おもしろいと同時に、さびしさもおぼえた。

2018年4月28日土曜日

吉村昭『空白の戦記』


先月のJABAスポニチ大会から野球観戦をはじめている。
高校野球の大会もすでに観に行った。たまたまなんだが、母校の野球部も東京都春季大会の一次予選を勝ち上がった。2014年以来である。昔は32校しか出場できなかった大会だったが、その後64校、96校と増え、今では120校が出場できる。夏の選手権大会東東京と西東京を合わせて200校ほど参加することを考えると運がよければ出られる大会になっている。大学野球はまだ観ていない。
今年はいわゆる松坂世代が20年目を迎えている。現役選手では和田毅、杉内俊哉、藤川球児らがいる。進学したり、社会人を経由した選手もいるのでみんなが20年目というわけではないが。当の松坂大輔も中日ドラゴンズにテスト入団し、復活をめざしている。
昨年のドラフト会議では日本ハムに一位指名された清宮幸太郎を筆頭に広島の中村奨成、ロッテの安田尚憲など高校生が多く上位指名を受けた。もしかすると清宮世代と呼ばれることになるのだろうか。
甲子園で活躍した選手はプロばかりでなく、進学した者も多い。
東京六大学野球では大阪桐蔭の徳山壮磨、岩本久重のバッテリーが早稲田大、主将だった福井省吾が慶応大、履正社の竹田祐が明治大、若林将平が慶応大、秀岳館の川端健斗が立教大に進み、すでに活躍の場が与えられている選手も多い。4年後、彼ら清宮世代はどれほどドラフト会議を席巻するだろうか。
世の中は公文書の改ざんだの、首相案件だのセクハラだので大騒ぎをしているが、できることなら誰にも気づかれないまま歴史の彼方に葬り去ってほしい事案であったに違いない。むしろ改ざんなどしなければバレないですんだかも知れなかったんじゃないかとも思う。
何十年も経って見つかる重要文書もある。ちょっとどきどきする。歴史はあとで掘り起こしたほうが断然おもしろい。こうした史実を吉村昭が文学にするとそれはもうおもしろいものになる。

2018年4月27日金曜日

阿川弘之『お早く御乗車ねがいます』

駅のみどりの窓口以外で紙の時刻表を手に取ることもなくなった。
スマホやタブレット端末ですぐに検索できてしまうから、分厚い時刻表をめくる手間は要らなくなったのだ。東京駅何時何分発名古屋駅何時何分着、乗り換えに何分かかって目的地到着何時何分とあっという間に必要な情報が手に入る。手に入るというか手のひらの上に表示される。もちろんそれで事足りるわけだから何も文句はない。ただ事足りたとしても物足りない。
時刻表を見てみよう。ご丁寧にもどこの駅を通過するかまでちゃんと記されている。隣の駅に行くのでない限り、列車は必ずどこかの駅を経由する。飛行機とは違う。通過する駅があるということは乗車時間中に空間を移動するということで時刻表は列車の移動をちゃんと記している。列車の進行を追いかけていくと、東海道新幹線なら新丹那トンネルを抜けて三島駅を通過したぞ、そろそろ富士山が見えてくるぞと気持ちが高まってくる。スマホの検索結果にはそういったわくわく感がない。これは紙の時刻表の持つ最大の特徴といえる。具体的な車窓の景色が描かれているわけでもないのに列車移動の時空間が記されていることによって移動の醍醐味を味わうことができるのである。
それは東海道新幹線に乗って富士山を見たことがある人の言い分でしょうと言われるかもしれない。はじめて旅する景色だっていい、見たことのない風景でもいい。時刻表には車窓から眺められる移動感が記されていることに変わりはない。
先だって読んだ『鉄道エッセイコレクション』(ちくま文庫)で阿川弘之という作家が鉄道マニアであったことを知る。時代としては昭和30年前後、獅子文六が『七時間半』で描いた電車特急時代の少し前にあたるだろうか。
阿川弘之の作品はまったく読んでいない。『山本五十六』、『米内光政』など戦記物が多いようだ。せっかく鉄道が取り持ってくれたご縁なのでこんど読んでみることにする。

2018年4月26日木曜日

芦原伸編『鉄道エッセイコレクション』

毎年のことだが、四月はいそがしい。
四月だけがいそがしくて後はずっと暇かというとそういうわけでもない。どうして四月がいそがしいのかと冷静に考えてみると、実はさほどいそがしくもないのだなと思うこともある。「しがつ」という音の響きやら、吹きわたる風が寒かったり暑かったりするせいでいそがしく感じられるだけかもしれない。
高校野球で春の都大会がはじまったり(今年はわが母校も予選を突破した)、東京六大学野球や東都大学野球の春季リーグがはじまるせいかもしれない。会社に新入社員が入ってくるように新チームに一年生が加入して戦力が刷新される。そういうことがそわそわ感を助長するのだろう。
春といえば靖国神社で奉納大相撲が開催される。三月場所を休場した白鵬や稀勢の里は出場するのだろうかなどとどうでもいいことを考えてまたそわそわする。
そわそわしたついでにどこか遠くまで出かけてみようかとも思う。電車に乗りたいと思うのもやはりこの季節のなせるわざか。仕事はたまっているが、一日くらいさぼって横浜の先まで京浜急行にゆられてみよう…。そんなろくでもない思いを断ち切るためには心静かに鉄道関連の書籍に目を落とすしかないのである。
先月ちくま文庫から刊行されたこの本はまさにかゆいところに手が届く本である。僕の高校時代の親友が筑摩書房にいるのでここではもちろん「ヨイショ」しながら書いている。
立松和平が、川本三郎が東海道本線や中央本線を各駅停車で旅をする。これ以上贅沢な旅があるだろうか。駅弁の旅もいい。百閒先生の阿呆列車の旅や宮脇俊三の名エッセイは以前読んでいたけれど、見事な再会を果たすことができた。
そして筋金入りの鉄道マニア阿川弘之。この人の作品はあらためてちゃんと読まなければなるまい。次に読むリストに入れておく(『お早く御乗車ねがいます』)。
列車旅はいいなあ。野球も相撲もいいけれど、春はやっぱり小旅行の季節だ。

2018年4月24日火曜日

佐藤良介『なぜ京急は愛されるのか』

京浜急行の本線は品川を起点として品川区大田区を縦断し、川崎、横浜そして湘南へと続く。
品川駅と都営地下鉄と連絡する泉岳寺駅は港区になるが、東京都民で京浜急行と接点があるのは上記二区だけである。品川区で生まれ育った僕とて実は京浜急行は身近な路線ではなかった。品川区も大田区も東急文化圏と京急文化圏にわけられているからだ。小学校中学校と最寄駅が東急だった関係で遠足などの校外活動はどうしても東急のテリトリーになる。当時海沿いにあった品川火力発電所や鈴ヶ森刑場跡など社会科見学で出向く際は貸切バスだ。電車を乗り継ぐことはない。そういうわけではじめて京急に乗ったのはかなり大きくなってからような気がしているが、はっきりとした記憶はない。
高校の頃、部活で足を捻挫した友人を送って平和島駅で下車した記憶が残っている。彼は本来大森駅を、僕は大井町駅を利用していた。どうして京急だったのか。もしかすると国鉄がずいぶん長いことストライキをしたことがあり、だとすると昭和50年の11月かも知れない(いわゆるスト権スト)。
いくら何でも品川区に住んでいて高校生になるまで京急に乗ったことなかったなんてありえないとも思うのだが、他に思い出せないのだから仕方がない。このときをMy first KQとしておこう(俺って相当オクテだったんだな)。
電車に乗ったり近所を走る貨物列車をながめたりするの好きだったわりには京浜急行の電車のフォルムや赤とクリームの色合いが好きになれなかった。今にして思うと乗る機会に恵まれなかったことによるやっかみなのではないかとも思う。
横浜に行くなら京急だ。東海道でも、東急でもなく、ましてや湘南新宿ラインでもない。北品川駅を過ぎ、高架になるのはちょっとどうなんだと思うけれど、右側に座って海側を見ようか、左側から台地をながめようかわくわくしている自分がいる。
いつの頃からかすっかり京急ファンになっていた。

2018年3月28日水曜日

大岡昇平『雲の肖像』

前回お話したアニメーションのつづき。
ひとりで撮影編集をしたけれど、さすがに音楽や効果音、ナレーションは自分ではできない。昔なじみの音効さん(音楽、効果音を専門とするスタッフ)に相談し、楽曲とSE(サウンドエフェクト)をつけてもらう。ナレーターも以前からよく知っている青年にお願いした。
広告会社のクリエーティブディレクターと前もって話をして、運動会っぽい曲がいいよねということになっていた。運動会らしい音楽と聞いて、ヘルマン・ネッケの「クシコスポスト」やルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」を想起するのは中年以上の方と言っていい。いまどきの運動会ではそんな古典的楽曲は流れない。でもまあ、世の中の記号としてこういう曲があるのは助かる。手品でいうところの「オリーブの首飾り」、サーカスなら「美しき天然」である。
映像制作のフローで最終工程は音楽やナレーションなど、音のミックスである。レベルの高低、レイアウトなどを検討する作業である。ベストな結果が出るまで何度も何度も繰り返し聴いてはチェックする。この動画のためにつくってもらった「クシコスポスト」を何十回となく聴いたわけだ。
試写の結果、無事に広告主のOKが出て、長い長い制作作業は終了した。
ちょうどその頃読んでいたこの本は大岡昇平らしい緊迫感はあまり感じられず、獅子文六のドラマを少しシリアスにしたかな、くらいの印象が残っている。
翌日、仕事を休んで横浜の保土ヶ谷球場に野球を観に行った。
秋季関東高校野球大会の準決勝。この大会でここまで勝ち進んできたチームは春のセンバツ出場は当確といえる。試合は千葉の中央学院対神奈川の東海大相模。久しぶりに観る野球である。高校野球らしく応援席にはブラスバンドが陣どっている。
初回東海大相模のチャンス。三番バッター森下が打席に向かう。ブラスバンドが彼のための応援曲に切り換える。
「クシコスポスト」だった。

2018年3月26日月曜日

アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』

9月末から10月にかけてアニメーションの仕事をしていた。
1センチにも満たない小さなチョコレートが集まって、何らかのカタチになる。実際には最初につくったカタチを少しずつ崩していく。逆再生すればいい。
理屈は簡単だが、実際は難しい。ひとつひとつのチョコレート(ジグソーパズルみたいなカタチ)をピンセットや爪楊枝で少しずつ動かしていく。2~3ミリほど動かしたり回転させてはシャッターを切る。大きく動かさないほうがいい。小さく少しずつ動かすことで動きがスムースになる。さじ加減が難しい。
溶けにくい製法のチョコレートなのだが、ほおっておくとピンセットにくっついたりして微妙な動きを阻害する。気持ちが焦る。無理をして舞台にしているアクリル板を動かしてしまう。カメラを固定した三脚を蹴飛ばしてしまう。すべてがやり直しだ。
アニメーションというのは何かを動かすことだと思っていたが、むしろカメラや背景など動かしてはいけないものをどうやって動かさないかが大切だと知る。
1,000枚を超える写真を撮り、よさそうなものを選んで編集ソフトに貼り付けていく。実際に使用した写真は300枚くらいか。その都度再生し、動きをチェックする。
パズル型のチョコレートは水色、ピンク、黄色、チョコレート色の4色。そのうち水色とピンクの発色がよくないという。なんとかならないかと相談される。フォトショップというソフトで水色とピンクだけ切り抜いて、色を濃くすればいい。300枚という量だけが問題だ。
一枚一枚の写真に対峙してみると撮影時にはわからなかった小さなゴミだとか、数ミリの動きで生まれるパースの変化に気付く。カメラとレンズによって映し出された写真に奥行きがあることを今さらのように知る。
編集を終えて音をつけた。ナレーションと音楽と効果音。アニメーションがさらに楽しく仕上がった。
『老人と海』を読む。本のことはいずれ書くことにする。

2018年3月25日日曜日

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』

目黒寄生虫館に隣接するギャラリーに黒沼真由美の個展「Arthropoda」を観に行く。
黒沼真由美はレース編みでサナダ虫を編んだり、競馬をモチーフにした油彩やドローイングなど個性的な作品を創作し、すでに何度か個展を開催している。サナダ虫をレースで編もうというインスピレーションは通いつめた目黒寄生虫館で得たという。
プラ板に精緻なダニなどの絵を描き、オーブントースターで焼いたものが今回の主作品である。甲を表面に描き、脚を裏面に描く。表と裏をシームレスに描きわけることで高低差が表現され、立体感が生まれる。会場には虫眼鏡が用意されていて、拡大して見るようになっている。顕微鏡世界の新しい表現を模索したという。
東京藝術大油絵科卒業、修士課程を修了した黒沼は、テレビコマーシャルの制作会社で企画の仕事にたずさわった。当時から突拍子もないアイデアをいくつも生み出した。ただ奇抜すぎた企画案が多かったせいか、世の中でこれといった代表作は残っていない。
あるとき、小豆、それも大納言小豆をぜいたくに使ったアイスバーのコマーシャルの企画を依頼された。彼女は小豆三納言というアイデアを考えた。大納言、中納言、少納言と三人の小豆キャラクターを描き、そのなかでアイスバーになることができるのは大納言だけ、その大納言を羨む中納言や少納言が「まろもまろも、アイスバーになりとうございます~」と地団駄踏むという抜群におもしろい企画だった。
アニメーションをつくる予算がなかったのかあるいは他の理由でカタチにはならなかったけれど、今でも鮮明に記憶にのこっている。
レイモンド・チャンドラーは『ロング・グッドバイ』『さよなら、愛しい人』に続き三冊目になる。この本は初期の作品だという。そう言われてみれば若さというか青臭さを感じる。
フリップ・マーロウの活躍を読みながら、「まろもまろも」という黒沼真由美のCM企画を思い出した。

2018年3月20日火曜日

大岡昇平『事件』

町の蕎麦屋で食べる蕎麦と立ち食いそばが同じである必要なまったくないと思っている。
むしろ違った方がいい。行列のできるラーメン屋のラーメンとそっくり同じラーメンを提供する立ち食いラーメン屋があっても流行るのは行列できるラーメン屋だろう。おいしいラーメン屋の味を再現したインスタントラーメンもコンビニエンスストアなどで見かけるが、絶対同じものではないと信じて疑わない。インスタントラーメンはあくまでもインスタントラーメンであり、どうあがきもがいても「生麺のような食感」でしかない。
立ち食いそばも同様で立ち食いそばとしておいしかったらそれでいいのであって、老舗の高級蕎麦屋みたいにうまくなくてかまわないのだ。もりそば一枚に1,000円近い額を払うのと同じ蕎麦を安く手軽に食べようと思うこと自体虫がよすぎる。注文と同時に生麺を茹で、天ぷらを揚げはじめる。その手間はありがたいことだけれどもだからといって過剰な期待は持っていない。立ち食いそばとしておいしかったらそれで満足である。
その点、茹で麺を使用する昔ながらの立ち食いそば屋には長年培われた工夫が見られる。そばづくりを製麺所にアウトソーシングしたぶん、つゆや天ぷらに力を注いでいる。コシだの香りだので若干劣る茹で麺スタイルは町蕎麦屋や老舗蕎麦屋との圧倒的な違いをむしろ武器にして戦っている。やわらかい麺と合っただしやかえし、揚げものなどの豊富な具材、そして薬味の唐辛子などすべて合わさって得も言われぬうまい一杯にができる。その完成度が高ければ高いほど立ち食いそばは他の蕎麦屋の蕎麦とは異なるジャンルの食べものになる。
話が蕎麦だけにちょっとのびてしまった。
裁判をあつかった大岡昇平の作品としては『ながい旅』(小泉尭史監督「明日への遺言」の原作)を読んだことがある。克明に審理の経過が描かれていた。そんなこともあってこの本はぜひ読んでみたいと思っていた一冊だった。

2018年3月16日金曜日

中川右介『阿久悠と松本隆』

音楽というのは苦手のジャンルであまりくわしいことはわからない。それでも人並みに流行歌と接してきた。
ラジオをよく聴いていたのは中学生から大学生くらいの時期、1970年代のはじめから80年代のはじめくらいだろうか。音楽は知らず知らずのうちに耳から入り込んで血肉となる栄養みたいなものだった。
広告の仕事をするようになって、歌をつくる人を意識するようになる。どんな表現にもつくり手がいるということをつくり手のはしくれになって気が付いた。音楽のことはわからないが言葉なら少しわかる。昔聴いた流行歌はすぐれた歌詞に支えられていた。
作詞家で好きだったのは、北山修、なかにし礼、阿久悠、松本隆。そして最近になって感服しているのが中島みゆきだ。僕にとっての五大作詞家のうち阿久悠と松本隆が題名になっている。さっそく読んでみる。
この本は(著者本人も言っているように)作家論ではない。阿久悠は阿久悠の時代を生きた作詞家であり、松本隆は松本隆のキャリアの中で創作を続ける。時代の渇きを癒す歌を書き続けた阿久悠と決して時代に寄り添うことのなかった松本隆。比較したところであまり意味はない。
著者は歴史年表を紐解くように70年代半ばから80年初頭のヒットチャートを追いかける。どんな曲が売れたか流行ったか、淡々と史実が並べられる。70年代を突っ走てきた阿久悠は、写しだす時代そのものが見えにくくなった80年代以降、その詞に味わいを増していく。歌を売ることをやめ、遺すようになっていく。
あとがきを読むと著者は坂崎幸之助『J-POPスクール』の編集にたずさわっていたという(僕にとってニューミュージックの教科書だ)。歴史年表の中にときどきふたりのエピソードが資料文献から効果的に引かれる。とりわけ大瀧詠一のアルバム《A LONG VACATION》の話は知らなかっただけによかった。
〈君は天然色〉をもう涙なしには聴くことができなくなった。

2018年3月15日木曜日

佐藤尚之『ファンベース』


20年近く前からMacintoshのコンピュータを使っていた。
1990年頃はまだコンピュータ関連の出版物がさほど多くなかったし、Macという製品の特性として使い方を習得しなければいけない機械ではなかったので情報源としてはパソコン通信の掲示板がメインだったように思う。バイブルと呼ばれるムックもあった。いずれにしろMacintoshの普及に一躍買ったのはAppleコンピュータの人ではなく、ユーザだったという印象が強い。
ファンが企業や商品・ブランド、サービスを支える時代だという。
何年か前に読んだロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』にそんなことが書かれていた。5年ほど前にアメリカで注目されはじめたマーケティング手法らしいが、それ以前から変化を続ける消費者に対応すべくコミュニケーションデザインという新しいクリエイティブ手法を模索していた著者が満を持してまとめた一冊がこの本だ。アンバサダー・マーケティングが日本にも浸透し、豊富な事例が見られるようになったといこうことか。
顧客の中でファンと呼ばれるおよそ20%が全売り上げの80%を支えているという。そのなかにはさらにコアファンと呼ばれる熱狂的な支持者がいる。従来型の「瞬間風速的」キャンペーンもコミュニケーションとして必要ではあるものの、今ある売り上げを支え、さらには今後の製品開発に欠かせない真摯な意見を表明するファンをだいじにする施策も欠かすことができない。
なぜか。
人口が減少していく。商品やサービスの機能的な差異がなくなっていく。情報過多の傾向はますます加速する。結果、新規顧客を獲得することが困難になる。このあたりの表現も毎年ひとつずつ100万人都市がなくなるとか、世界中の砂浜の砂粒の数くらい情報があふれるだとか、読者を惹きつける表現も巧みだ(さすがクリエイティブ)。
筑摩書房のファンとして(笑)人にすすめたくなる本である。

2018年2月19日月曜日

内田百閒『大貧帳』

なべさんを思い出した。
なべさんは美術デザイナーだった。映画やコマーシャルなどを撮影する際のセットをデザインする仕事である。先輩デザイナーの助手だったけれど低予算の仕事のときは主にキッチンまわりのデザインをひとりですることもあった。
彼のいいところは美術まわりだけでなく、制作の担当する仕事、商品をきれいに並べるとか、後片付けとかも手伝ってくれるところだ。よく働くなべさんは上の人にも下の人にも好かれた。
住んでいるところが僕の実家に近かった。休みの日に駅で待ち合わせて酒を飲みに行くこともあった。スタジオで撮影がはやく終わるとどこかで一杯やって帰りましょうよと声をかけてくれた。まあ、そこまではいいんだが、たいていの場合、なべさんはお金を持っていない。飲んで騒いで、さあ帰ろうとなると今手持ちがない、今度返すから貸してくれという。それでいて(家が近かったせいもあるが)タクシーで帰りましょうよなどという。割り勘の飲み代も払えないのにである。
あるときなべさんにいくらかお金を貸しているという話を当時の同僚に話したところ、俺はもっと貸しているという。先輩はもっと貸していた。総額にするとたいした金額になる。そのとき皆で話したのは貸した金が返ってくるかどうかではなく、なべさんはどうしてそんなにお金を持っていないのかということである。昔何週間かロケ撮影で家を空けているあいだに奥さんが生まれたばかりの子どもを連れてどこかへ行ってしまったことをそのときはじめて知った。きっと養育費だとか慰謝料で首が回らないのかも、なんて話をした。そこらへんはなべさんの人柄だろうと思う。
そうこうするうち、なべさんの上司がやってきて皆にお詫びしてお金を返してくれた。なべさんはよその制作会社の人たちからも借金していて、ついに発覚したのだという。
お金を借りたことはほとんどないが、借りるというのもたいへんなんだろうと思う。

2018年2月17日土曜日

内田百閒『ノラや』

犬を飼うようになって八年ほどになる。
飼っているといっても世話をしているのは家内で、自分で何かするわけではない。家内が家をあけるときに餌をあげたり、糞尿の始末をするくらいだが、いつ頃からか忘れたが休日に散歩に連れていくようになった。申し遅れたが、写真のように二匹いる。義妹の飼っている犬が子どもを産み、雄の二匹をいただいた。兄弟ということになるか。
それまで犬を飼ったことはいちどもなく、どういう生き物かまったく見当がつかなかったが、散歩に行くかと訊くと尻尾を振って(よろこんでいるらしい)玄関の方へ駆けていく。人間のことばがわかるのかと思ったがそうでもなく、最近では椅子から立ち上がってそろそろ散歩に連れて行ってやろうかと思っただけで尻尾を振って駆けていく。どうやらことばがわかるわけではないようである。もしかすると人の心が読めるのかもしれない。そう思うと迂闊なことは考えにくいので緊張を強いられる。
家内が言うにはいつも餌をやる時間になるとそろそろではないかと催促するようなしぐさをするという。娘を叱っているときなどはそっとハウスに戻って隠れるようにしている。
当然のことながら猫を飼ったことはないし、飼おうと思ったこともない。飼い主に話を聞くと猫もかしこいらしい。犬よりも断然かしこくてかわいいみたいなことを言うがそれは猫好きな人だからだろう。
百閒先生はどうやら犬は嫌いだったようだ。巻末平山三郎の解説に吉田茂との対談の様子が描かれているが、その中で犬はほえたり噛みついたり人間を敵視するという。犬好きには犬好きの、猫好きには猫好きのそれぞれの理屈があるのだろうから、ここでそんな議論はしない。
この本は猫が好きな人にはたまらないくらいかなしいお話だけれど、別に猫をかわいがる人じゃなくてもかなしい気持ちになる。自分が飼っている犬がある日どこかへ行ってしまったらと思うと泣けて泣けて仕方ない。

2018年2月14日水曜日

四方田犬彦編著『1968[1]文化』

1968年は今から50年前ということになる。
人類がはじめて100メートルを9秒台で走った年であり、誰ひとりとして月に降り立つ者もいなかった時代だ。ずいぶん昔のことのようにも思えるが、ついこのあいだという気もする。
今と同じように日本は平和だったが、よく考えてみると太平洋戦争の終結から20年ちょっとしか経っていない。フィリピンのジャングルには日本兵が生きていたし、まだまだ戦争の熱が冷めきっていない時代だった(それなのに冷戦の時代と言われていた)。
アメリカの若者はベトナム戦争に送り出されていた。ピーター・ポール&マリーは花をさがしていた(ヒットしたのはその数年前だけれど)。日本の若者たちは学生運動に勤しんでいた。あらゆる大学で闘争をくりかえしていた。阪神タイガースのジーン・バッキー投手と読売ジャイアンツのコーチ荒川博が甲子園球場で殴り合いを演じていた。
時代は熱かった。
60年代は否定の時代、70年代以降は肯定(否定性の否定)の時代と言われている。68年はありとあらゆる場所で反対運動が繰り広げられていた。安保闘争終結後、体制や既成概念を覆そうとするエネルギーに支えられた熱い季節が終わる。若者たちは岡林信康を歌わなくなり、結婚しようとか貧しい下宿屋からお風呂屋さんに行ったよねみたいな歌が流行りはじめる。さらに数年経って、村上春樹がデビューする。そう考えると60年代と70年代は20世紀と21世紀以上に世界が変わる。
1968〜72年。めまぐるしい変化の時代に数多くの才能があらわれては消えていった。あるいはその季節だからこそ開いた花もあったろう。忘れ去られていくものを書物というカタチで記憶にとどめる作業。それがこの本のテーマだ。
その頃、僕は小学校の高学年から中学生になりかけていた。うっすらとした記憶だけが残っている。大人になってふりかえってみるとものすごい時代に小学生をやっていたんだなと思う。

2018年2月13日火曜日

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』

仕事場が平河町にあったころ、紀尾井町あたりで半藤一利さんを何度か見かけたことがある。
このブログでは面倒くさいので敬称を略しているのだが、なんどかお見かけしているのでどうも略しにくい。半藤さんと呼ぶことにする。
お昼に紀尾井町の交差点にあるつけ麺屋か蕎麦屋に行く道すがらであったと思う。仕事場を移ってしばらくつけ麺を食べていない。
もちろん通りすがりに見かけただけであり、相手は芸能人でもプロ野球選手でもないから、まわりががやがやすることもない。たまたま僕がテレビや雑誌で氏のお顔を拝見したことがあるからわかるまでで、挨拶するわけでもなく、ましてやサインを求めることもない。
長いこと週刊文春や月刊文藝春秋の編集長だったという。その関係もあって、紀尾井町あたりに出没するのだろう。文藝春秋といえば松井清人さんも編集長だった。松井さんは実家の近所の大きな家具屋のご長男で、地元のお祭りなどでときどきいらしている。もし麹町あたりでばったり会ったなら「松井さんには母がいつもたいへんお世話になっていて…」くらいの挨拶はしなければならないだろう。鈴木某という高校の同期生も文藝春秋の編集長だったらしいが、ずっと接点がなかったので以前名前を聞いたけれど忘れた。
半藤さんが歴史、とりわけ昭和史に造詣が深いことは知っている。数多くの著書を上梓されている。残念ながらこれまで読む機会に恵まれなかった(唯一読んだのは大相撲の本だった)。ネット書店でこの本を見かけ、紀尾井町を歩いていた氏を思い出して読んでみることにした。さまざまなパーツを買い集め、削ったり、接着したり、色をつけたりして昭和のジオラマをつくっている人のように思えた。あの人の中にはこんなにたくさんの史実が詰まっているのだなと思うともういちど麹町界隈でお目にかかりたいものである。
そのときにちゃんとお声がけできるようもっと昭和史を勉強しておきたいと思う。

2018年1月30日火曜日

城山三郎『大義の末』

昔話が多い。60年近く生きてくれば、おのずとそうなるだろう。
次女に昔の話をする。終戦後日本は、みたいな話だ。娘は言う。「パパから見れば終戦は近かったかもしれないけれど、私から見ればもう何十年も昔のことだし、明治維新も戦争もみんないっしょに見える」と。正確にどう言ったかはおぼえていないが、だいたいそんなようなことを言った。
たしかにそうだ。自分が生まれる50年以上も前のできごと(しかも二十歳を過ぎて聞かされるわけだから今からだと70年以上前の話になる)となれば、それは教科書に出てくる歴史だ。伊藤博文が暗殺されたとか、夏目漱石の『三四郎』がベストセラーになって、などという話を聞かされたらやはり自分とは無縁な昔の話だと思うだろう。そう考えると娘の言いたいこともわからないでもない。
太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦などさまざまな呼ばれ方をしている「先の大戦」が終わって今年で73年になる。戦争の話は主に終戦時国民学校の5年生だった母から召集令状、警戒警報、空襲警報、防空壕、防空頭巾、灯火管制、特攻隊、配給、そんなことばをくりかえし聞いて育った。歳のはなれた母の弟は大きくなったら兵隊さんになると言っていた。当時の人びとは皆「お国ために」生き、そして死んでいった。
子どもだった母親の話だけでは戦争の実情はわからない。本を読んだり、映画を観たりすることで補完していく。今の人はたいていそうだろう。そして直接体験者ではないけれど(間接体験者とでもいうのだろうか)、語り継いでいかなければならない。強く意識したことはないが、そうあるべきだと思う。
ほおっておくとたいせつななにかがどんどん遠ざかっていく。ついこのあいだまで目の前にあったものがいつしかなくなってしまう。この本の主人公も同じような思いを持ち続けていたのではないだろうか。
手段はどうあれ、70年を超える時間の彼方に思いをめぐらせる。だいじなことだと思う。

2018年1月27日土曜日

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

昨年ようやくリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」を観た。
映画の公開は1982年。2019年のロスアンジェルスが舞台となっている。
原作を読んでみる。
フィリップ・K・ディックははじめて読む。1968年の小説である。50年前、人類がはじめて100メートルを9秒台で走った年だ。月に降り立ったものも誰ひとりとしていなかった。日本は明治100年で、グループサウンズが流行っていた。
昔はカート・ヴォネガットをよく読んでいたが、SFと呼ばれるジャンルはあまり読まない。
映画ではクルマが空を飛んでいたが、コンピュータのモニタはブラウン管だった。液晶ディスプレイはまだ想像を超えていたのかもしれない。小説の中で‘映話’と訳語をあてられているのはおそらくテレビ電話のことだろう。これは2019年を間近にひかえた現代でほぼ実用化されている(ただしブラウン管ではない)。ネクサスもアンドロイドも人間の姿はしていないけれど商品化されている。火星はまだまだ生活圏にはほど遠い。
未来を描く小説も映画もやがて検証される。そのあたりが難しい。SFの正しい定義はくわしく知らないが、根も葉もない空想世界ではSFとはいえないのではないか。あくまで科学的でなければならないのではないか。そう思うとたいへんな仕事だ。
「ブレードランナー」で思い出したのは、なぜか日暮里である。山手線の日暮里駅から北はいくつかの路線が分岐する。常磐線が東に大きくカーブしていく。その上を京成本線がゆるやかに、同じく東にカーブして越えていく。尾久橋通りの上を走る日暮里・舎人ライナーが常磐線と京成本線を越えていく。西日暮里を過ぎると山手線と東北本線が分かれていく。見えはしないが、地下には東京メトロ千代田線が走っている。幾重にも重なった立体交差が未来都市を想起させる(勝手にそう思っている)。
話がとっちらかってしまった。慣れないジャンルの本を読んだせいかもしれない。

2018年1月24日水曜日

坂崎仁紀『ちょっとそばでも 大衆そば・立ち食いそばの系譜』

紙を仕入れて、印刷し、包装紙などに加工して販売していた父の仕事をときどき手伝うようになったのは小学生の高学年か、中学生の頃だったか。
紙を卸したり、印刷したりするのは台東区の入谷や竜泉あたり。広くいえば浅草界隈ということになる。生麺を茹でる立ち食いそば屋にはじめて行ったのはおそらくそのあたりではないかと思う(残念ながら正確に思い出すことができない)。このあいだ鶯谷や入谷を歩いて、あのとき食べた立ち食いそば屋をさがしたが、まるで見当がつかない。
立ち食いそばのそばは製麺所でつくられた茹麺を湯がいて出す店と生麺を店内で茹でる店がある(冷凍麺の店もある)が、近ごろでは店内で茹でる生麺の店が増えている。小ロットで茹でては茹でたてを提供する。普通の町のそば屋で食べるようなそばを手軽に味わえる。コシがあってうまい。
近年、チェーンで展開する立ち食いそば屋も多い。どこに行っても安定した味を楽しめるようになっている。それとは別に独立系の店も根強い人気に支えられている。立ち食いそば的には現代は素晴らしい時代であると思う。
茹でたての生麺が一般的になってきている一方で、若い頃よく食べた茹麺タイプが妙になつかしく感じられるようになった。なつかしさばかりではない。茹麺には茹麺のよさがある。たとえば生麺では太いそばにはなかなか出会えない。太ければ太いほど茹で時間がかかるので立ち食いそばというビジネスモデルにはそぐわない。コシの強さという点では生麺にはかなわないが、かき揚げなど揚げものとの相性は少しやわらかい茹麺のほうがいいような気もしている。
というわけでここのところ、時間を見つけては立ち食いそばを食べに出かける。この本は格好のガイドブックである。秋葉原や新橋には古くから続いている店が多い。もちろん入谷、竜泉、千束あたりにも人気店が多いという。
そのうち父と行ったそば屋にも再会できるのではないかと思っている。

2018年1月23日火曜日

内田百間『御馳走帖』

先月人に頼まれてイラストレーションを描いた。
小さい頃から絵を描くのは好きだったが、きちんと勉強したわけでもない。当時読んでいた連載漫画を写していただけだ。美術を専門とする大学があることは知っていたが、特別な人が進む場所だと思って見向きもしなかった。広告の仕事をするようになって絵を描くようになる。はじめのうちはうまくもないくせにうまく描こうとして下手な絵ばかり描いてきた。あるときふと気がついて、もともとうまくなんか描けっこないんだから、思い切り下手に描こうと思った。その努力の甲斐あって、今ではすっかり絵が下手くそになった。
それでも絵を描いてくれませんかなどと頼まれる。僕が長年たずさわってきた業界では絵の描ける人と描けない人がいて、圧倒的に後者が多い。絵の描ける人のうち大半が上手に描ける。絵が描けて下手な人はそれほど多くない。きっとそんなわけで需要があるのではないかとおぼろげに思っている。
イラストレーションを担当した仕事はブリックライブというレゴブロック遊び放題のイベント告知のためのものだ。昨年に続いて今年も各地で開催される。メインビジュアルを新しくしてさらなる集客をはかろうということらしい。そんなことを言われてもたくさんのお客さんを集めるような絵なんか描けるわけがない。とはいえ人に頼まれたりするのはきらいじゃないからほいほい、ちょいちょいと描いてみた。
阿呆列車以来、百間先生のファンになった。
なれなれしく先生などと呼んでいるが、できることなら先生のように列車に乗って、小鳥を飼うかは別としても、好きなものを食べて、お酒を飲んで暮らしたいと思っている。そのためならお昼はもりそば一枚でいいとも思っている。現実的にはもりそばだけではちょっとさびしいのでかき揚げをのせるとか、玉子とじにするとか、カレー南蛮にするとか自分なりに工夫したい。
小泉堯史監督の「まあだだよ」をもう一度観たくなった。