2017年8月9日水曜日

吉村昭『高熱隧道』

トンネルを掘ったこともなければ、トンネル工事を想像したこともなかった。
黒部川発電所建設のインフラ整備のひとつとして谷深い秘境にトンネルを掘る話がこの『高熱隧道』だ。
広告の仕事を続けていてよかったと思うのは、自分では経験できなかった職業の人と出会えたことだ。銀行や証券会社、食品会社などの担当者からそれぞれの業界の苦労話を聴くことは楽しいことだ。空調設備の設計や船舶の船級審査など、一生知りえなかった仕事だったかもしれない。製靴会社の工場で見せてもらった職人の技術も忘れられない。
ひとりの人生でふれることのできる職業の数なんてたかが知れている。そういう意味では吉村昭は興味深い作家である。日本全国を駆けまわって蜂蜜を採取する養蜂家、青森県大間でマグロを釣る人、戦闘機や戦艦をつくる人。読書ならではの出会いだ。
東京の葛西に地下鉄博物館という施設がある。トンネルはシールドマシンという円筒形の巨大な掘削機で掘り進むと紹介されていた。さほど難しい作業ではないと思っていた。ところが読んでみると黒部峡谷に穿ったトンネルの工法はそうではない。穴を開け、ダイナマイトを入れ、爆破する。土砂を運び出してはまた穴を開けてはダイナマイト。この作業を延々繰りかえす。トンネルの両端から掘り進み、中心点はほとんどずれないというから驚きだ。技術者の設計がそれだけ正確であるということらしい。
大手ゼネコンである大成建設は「地図に残る仕事」というキャッチフレーズでずいぶん長く企業広告を展開している。魅力を感じる素敵なコピーだ。しかし建設土木というと危険をともなう仕事である。ましてや相手が“自然”ならなおさらだ。命がけの仕事だ。
黒部峡谷のトンネルの場合、現場にたどり着くだけでも命がけの現場であり、自然の脅威にさらされながらの作業が続く。手に汗握るシーンが続く。もちろん手に汗をかくだけでは済まない。なにせ“高熱”なのだから。

2017年7月28日金曜日

根来龍之『プラットフォームの教科書』

道を訊ねられることが少なからずある。
銀座の三原橋の交差点で新橋演舞場はどこですか、みたいに。晴海通りを指差してこの先に万年橋という信号がありますからそこを右に。ルノアールの看板が目印です。少し行くと采女橋という信号があるので直進してください。左手に見えてきますよ、などとおしえる。
不思議なことにほとんどの人は僕の知っている場所を訊いてくる。昔、京都の大丸の前で烏丸駅はどこですかと話しかけられたこともある。
それはいいとして、もしもあるとき見知らぬ人からプラットフォームってどういうものなんですかと訊ねられたら、おそらく答に窮するだろう。しかし人生というものは何が起きるかわからない。その矢先書店で目にとまったのがこの本だった。
読めばわかるけどそれを人に伝えることが難しいことってあるよね。とりわけICT関連で多い。ひととおり読んで、そうかそういうことだったんだと理解したものの(それを理解と呼んでいいなら)、やはり道を訊ねるみたいに訊かれたら答えられるかどうか、自信がない。
休日お昼にラーメンが食べたくなったとする。その際の選択肢としては少し歩いて駅前のラーメン店に行くか、スーパー、コンビニで購入してうちでつくるかが考えられる。これはプラットフォームではない(僕の勝手な解釈だけど)。玉子やほうれん草を茹でたり、ねぎをきざんだり、場合によっては豚肉のかたまりを買ってきてチャーシューからつくることだってある。人によってはメンマだって炒めるにちがいない。もちろんお店で食べるとしてもこうしたプロセスは当然必要だ。
ではプラットフォームとはなにか?
それはカップラーメンではないだろうか。ラーメンを食するという欲求を満たすあらゆる工程がレイヤー化されている。誰もがそこに参加できる。お湯を沸かし、注ぐだけで均質な利便性を得られる。
ちょっと違うかもしれないけど、こんど道で訊ねられたらそう答えるようにしよう。

2017年7月26日水曜日

小霜和也『急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。』

1980年頃、すなわち僕が大学生だった当時、デジタルと名の付くものといえば時計くらいしかなかった。
今ではあらゆるものにデジタルという言葉が付く。カメラはデジタルカメラになった。デジタル家電なる製品も一般的なものとなった。有形物でなくてもデジタルマーケティングなる方法論も生まれた。
デジタルクリエイティブは少し違うような気がしている。それは方法論としてデジタル化された手法を意味するのではなく、デジタル化のすすんだ世の中でどういったコミュニケーションが有効かを模索する考え方なのではないかと思っている。
そもそもクリエイティブという仕事は課題解決のための方法のひとつで視聴覚=感性を刺激する高速で平易なコミュニケーションであり、そのためのアイデアの集積回路みたいなことかなとずっと思っていた。
方法論としてのデジタルクリエイティブの端緒はコンピュータ上であらゆるデザインや動画の加工・編集ができるようになったことではないだろうか。センスのある職人の手からセンスのある人の手にクリエイティブは譲渡された。手仕事のデジタル化だ。写植文字を切り刻んで素敵なボディコピーをレイアウトする仕事がなくなり、フイルムをひとコマずつ切ってつなぐ職人技が意味をなさなくなった。
あくまで方法論の話であるが。
デジタルクリエイティブとはデジタルな環境下でより効果的な広告表現ということか。それは(ある程度まで)計測可能で、PDCAがまわせるシステムであり、まさに「運用する」クリエイティブである。そのためには総合系エージェンシーとデジタル系エージェンシーとの融合が欠かせないという。
もちろん筆者の出自はデジタルでなく、クリエイティブだからクリエイティブ寄りの見解が多い。「デジタル系エージェンシーはこれまでクリエイターを育ててこなかった」と一刀両断されているもともとデジタル系の方はこの本にどういった反応を示すだろうか、興味深い。

2017年7月25日火曜日

吉村昭『陸奥爆沈』

何ヵ月か前のこと、会社のネットワークがつながらなくなってしまった。
インターネットにもつながらないし、プリンタで出力もできない。LANのケーブルもWi-Fiもまったく用をなさなくなってしまった。
配線とメンテナンスをお願いしている会社の人に来てもらったが、原因がわからない。ルータをリスタートしても復旧の兆しがない。応急処置として以前使っていた予備のルータに入れ替えたところようやくつながった。
その翌日同じ人が来て、もとのルータに接続しなおした。普通につながる。昨夜の不通は何だったのか。
管理部門から原因がわかり次第お知らせしますというメールが届いたけれど、もう何ヵ月か音沙汰なしだ。こうして世の中に数多ある通り雨のような不具合は忘れ去られていく。
最後に船に乗ったのはいつだろう。
3年ほど前だったか、南房総の館山市を訪れた帰りに浜金谷からフェリーに乗り、久里浜に渡った。わずかな航海だったが、東京湾をわたる風が気持ちよかった。お昼に食べたアジフライもうまかった。
とある仕事で「ちきゅう」という船に乗ったことを思い出した。
「ちきゅう」は地球深部探査船といって海底深く穴を掘ってその堆積物などを採取する特殊な船だ。内部を取材させてもらう仕事だったので海に出たわけではない。清水港で停泊中に乗せてもらった。
人にもよるけれど何か特別な事情でもないかぎり、人はそう頻繁に船には乗らないのではないかと思う。ましてや軍艦に乗るなんてことも、たぶんない。
その身近でない軍艦を間近で見せてくれたのは、吉村昭の『戦艦武蔵』だった。その製造過程を読むかぎり、軍艦が爆沈するなど想像にもおよばないのだが、さすがに火薬庫に火が着けば沈んでしまうものなのだね。しかも軍艦爆発事件のほとんどが人為的な原因だったという。人間が恐れるのはやはり人間ということだろうか。
さて、先のネットワークの不具合だが、原因はいまだに究明されていない。

2017年7月24日月曜日

吉村昭『七十五度目の長崎行き』

ちょうど昨年の4月と7月に仕事で長崎を訪れた。
波佐見という町にある小さな社がある。水神宮という。土の神様と水の神様が祀られている。その社殿に奉納される天井画を取材した。はじめての長崎だった。というかはじめての九州だった。
仕事で行く旅は味気ない。効率が最優先されるからだ。
早朝の飛行機、レンタカーでの移動、宿の近くで夕食。翌早朝から取材・撮影して、最終の飛行機で帰京する。仕事だからといえばそれまでだけど、それでも長崎に行ってきたというと眼鏡橋は見てきたか、グラバー園には行ったのか、ちゃんぽんは食べたのかと訊ねられる。行ったところは波佐見という焼きものの町で長崎市街にいたのはほんの2時間ほどだ。三菱重工長崎造船所もシーボルトや坂本龍馬ゆかりの地もまったく訪ねていない。
負け惜しみではなく、多くの人が想像するのと少しちがった旅ができるのはそれはそれでうれしいこともある。
長崎空港から波佐見町に行くにはJR大村線に沿った国道を北上する。川棚という小さな駅(これがなかなか風情のある駅なのだ)を目印に川棚川沿いを上流に行ったあたりが波佐見町だ。このあたりは穀倉地帯で麦畑がどこまでもひろがっている。仕事の合間や移動中にレンタカーの窓から見た風景こそ何ものに代えがたかったりするものだ。
ちなみに朝9時過ぎに東京駅を出発すると川棚駅に16時半に着く。乗換はわずか2回である。いまどき陸路で長崎に行くのもどうかと思うが、思いのほか遠くない(波佐見町のもうひとつの入口JR佐世保線の有田駅なら乗換1回で16時前に着く)。いつかそんな旅をしてみたい。
吉村昭は長崎を舞台にした作品をいくつも書き上げている。その訪問回数は100を超えるという。そのほとんどが資料収集や取材などの仕事だったわけだからやはりあわただしい移動のくりかえしだったのではないだろうか。
移動の車窓から吉村昭はどんな風景を目にしただろうか。

2017年7月10日月曜日

中尾孝年『その企画、もっと面白くできますよ。』

ときどき思い出したように広告クリエイティブの本を読む。
お目にかかったことのある人、いっしょに仕事をしたことのある人より、最近ではほとんど面識のない方の書いた本が増えてきた。時代を引っ張ってきた先達が少しづつ世代交代をくりかえし、業界内での新陳代謝がすすんでいるせいだろう。
中尾孝年は電通入社当初、中部支社クリエーティブ局に配属されたという。21世紀になる少し前のことだ。僕は当時、中部支社のCM企画を年に何本か手伝っていた。エネルギー関連の仕事やコンビニエンスストアのキャンペーンなど。
新幹線で名古屋に行って、夜遅くまで打合せをして、ぎりぎり最終ののぞみ号で帰るか、クリエーティブ局の方々とお酒を飲んで一泊し、翌朝帰京した。いっしょにチームを組んでいるCMプランナーに同世代が多く、仕事が片付いても話は尽きなかった。
当時は(今もそうだけど)仕事をするうえであまり余裕がなく、自分のアイデアを絵コンテに描いて、さらにその案をプレゼンテーションの舞台にのせるだけで精いっぱいだった。誰かが考えたアイデアに自分のアイデアを盛り込んで、ブラッシュアップしたりもした。そうして一年に何本かテレビコマーシャルになってオンエアされた(名古屋地区だけ放映されてできあがりを視ていない仕事も多かった)。
自分なりに「面白い」広告を考えよう、つくろうと努力してきたつもりだけど、今になってみるとさほど面白くはなかった気がする。もっと面白くしようという熱意みたいなものがなかったような気もする。とりあえず面白そうなカタチになればそれでいい。そうしてお酒を飲みに出かけた。
著者の中尾孝年はおそらくその頃の新入社員だったのだろう。
おじさんたちがとっとと仕事を片付けて、栄の街に繰りだしていく頃、クリエーティブ局のフロアでひとり「面白い」企画を追求していたのだろう。そして当時彼を指導した上司にも勝るすぐれた上司になっているにちがいない。

2017年7月4日火曜日

星野博美『戸越銀座でつかまえて』

その昔、高輪あたりが江戸のはずれだった頃、さらに南へ進んだ江戸越えの集落が戸越だという。
明治になって戸越村は周辺のいくつかの村と統合して、平塚村になり、昭和になって東京市に編入され荏原区となる。戦後荏原区は旧品川区と合併し、現在の品川区になった。
僕が生まれ育った町は旧品川区と荏原区の区界に近い。立会川という川が流れていて、橋を渡れば旧品川区だった。三菱重工や日本光学(現ニコン)の工場があり、さらに下流には国鉄大井工場があった。現在ではJR東日本総合車両センターとなっている。旧品川区の大崎地区も工業地帯だった。現在のように再開発がすすめられる以前、大崎駅周辺は武骨な工場が林立していた。
旧品川区にくらべると荏原区は商業がさかんだったイメージが強い。もともと農村地帯だったからさほど歴史は古くはないだろうが、武蔵小山や戸越銀座、中延に大きな商店街を持っているのが特徴的だ。
戸越銀座は関東大震災後の復興にあたり銀座からレンガをもらい受けたことがきかっけで命名された日本初のなんとか銀座であるという。品川区内の商店街としては圧倒的な知名度を持っている。
それでいて個人的に少々距離を感じるのは(たしかになにか買い物をしたという記憶がまったくない)先述したように荏原区のはずれで育ったせいかもしれない。買い物をするにもどこかに出かけるにしても大井町駅を起点としていた。東急大井町線高架下の商店街や阪急百貨店に幼少の記憶が集中している。戸越銀座には無縁だったが、武蔵小山や中延の商店街(当時アーケードが付いているだけでモダンな商店街だった)には思い出がある。中学校の制服を扱う洋品店があったからだ。
というわけでこれまで疎遠にしていた戸越銀座とお近づきになりたく、ときどき散策したり、本書のようなタイトルの本を読んでみたりしているのである。
そういえば僕が通っていた幼稚園は戸越銀座商店街のすぐそばにある。

2017年6月30日金曜日

山本周五郎『つゆのひぬまに』

日本には季節が四つあるが、野球には春夏秋と三つの季節がある。
これは個人的に季節分けをしているだけで世の定めでも自然の摂理でもなんでもない。3月から5月が春、6月から8月が夏、9月から11月が秋。
春。高校野球でいえば、甲子園球場で選抜大会が開催され、春季地区大会の予選がはじまる。大学野球の春季リーグ戦、社会人野球もJABA(日本野球連盟)主催の大会が各地でスタートする。もちろんプロ野球もだ。
高校野球の地区大会が終わり、都市対抗野球の代表が決まって春野球は終わる。
夏野球は大学選手権から。高校野球も選手権大会の予選がはじまる。7月になれば毎日のように甲子園をめざすチームが熱戦を繰りひろげ、社会人は東京ドームで日本一を競う。そして8月には甲子園。
大学選手権は35季ぶり東京六大学春季リーグ戦優勝の立教大が59年ぶり4度目の優勝を飾った。立教は長嶋茂雄がいた昭和32年と翌33年に連覇している。それ以来の優勝ということで決勝戦は多くのOBが神宮球場に集まったという。もちろん長嶋さんも。
主将の熊谷敬宥は仙台育英時代に上林誠知(ソフトバンク)らとともに明治神宮大会で日本一を経験しているが、長嶋茂雄の目の前でインタビューを受け、チームメートに胴上げされるなんて一生の宝物だろう。
山本周五郎の珠玉の短編集を読む。冒頭の「武家草鞋」からすばらしい。「おしゃべり物語」も「妹の縁談」もいい。なんといっても表題作「つゆのひぬま」がいい。この原作をベースに黒澤明が脚本化した「海は見ていた」はその後遺志を継いだ熊井啓が映画化した。遺作「まあだだよ」の後作品化された「海は見ていた」と「雨あがる」の二編は黒澤最晩年期の仕事である。「海は見ていた」はぜひ観てみたい。
6月ももう終わる。来月は都市対抗野球に高校野球選手権大会。大阪や西東京など有力校がそろった地方大会からも目がはなせない。
この夏はどんな野球にお目にかかれることか。

2017年6月27日火曜日

ウィリアム・サマセット・モーム『月と六ペンス』

2009年、国立近代美術館でゴーギャン展を観た。
「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」が日本ではじめて公開された。1897~98年に描かれたこの作品は世界的に高く評価されている。ボストン美術館まで出向かずに観ることができたのはラッキーだった。
ポール・ゴーギャン(ゴーガン)のタヒチでの日々は自伝的回想『ノアノア』に描かれている。
モームの『月と六ペンス』をはじめて読んだのはいつ頃だろうか。新潮文庫で読んだ記憶がある。装幀に特徴があったからだ。いつしか光文社の古典新訳文庫シリーズの一冊として上梓されていた。ゴーギャンをモデルにした小説だったことは憶えてはいたものの、あらためて読み直してみると人の記憶なんてこんなものかと思う。
ゴーギャン(もちろんチャールズ・ストリックランドのことだ)がこの世のものとは思えないくらい最低な人間として描かれている。突如として迸り出た主人公の天才、その深さ奥行を際立たせる演出かも知れないが、あんまりだ。モームが本当に描きたかったのは実はストリックランドと対比される凡庸な人びと(妻を寝とられた友人ストルーヴや突如裕福な生活が舞い込んできた夫人)だったのだろうか。
僕の記憶の中のストリックランドはある日才能にめざめ、タヒチにわたって開花した天才画家というストーリーでしかなかった(世界的に認められたのはその死後であるけれど)。おそらく年月とともに読んだ当時の記憶が薄れ、その後作品を観たり、別の本を読んでいくうちにいやな人ではなくなってしまった。『月と六ペンス』もゴーギャンの伝記的小説でしかなくなってしまった。
それでしばらくぶりに読み直してみたら「あれ、こんなひどい人間だったっけ」となってしまったわけだ。
そういえば昔タヒチを訪れたことがある。ゆるやかな時間が流れていた。
ゴーギャンの時代はマルセイユから2か月かかったという。
きっと心が洗われる旅だったにちがいない。

2017年6月20日火曜日

関川夏央『昭和が明るかった頃』

CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。

2017年6月13日火曜日

安西水丸『神が創った楽園』

1992年9月から10月にかけてニューヨークに遊びに行った。
当時のメモにはセントラルパークの回転木馬(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に出てくるあの回転木馬だ)を見ること、安西水丸がニューヨーク滞在中住んでいた家をさがすこと、トイザらスでおもちゃを買うこと、TYMNETという中継サービスを利用してパソコン通信をすることといったささやかな目標が記されている。
安西水丸は1969年3月羽田空港を立ち、ハワイ経由のパンナム機で渡米した。はじめはハドソン川のほとり、リバーサイドドライブにあるアパートに住み、その後アッパーイーストの閑静なアパート(たしか83st.だったと思う)に引っ越している。
1990年、僕はタヒチを訪れている。新婚旅行でだ。
特にどうしても行きたい場所が思いつかなかった。当時は毎日忙しかったから、日常から逃避できる南の島がいいんじゃないかと思った。できればフランス語圏がいい。選択肢は狭まってきて、行き先はタヒチに決まった。予備知識はなにもなかった。パペーテからプロペラ機に乗り換え、海の上の空港に着き、船でボラボラ島へ。ポール・ゴーギャンやサマセット・モームの『月と六ペンス』を思い出したのは到着してしばらくたってからのこと。
安西水丸は2004年にタヒチ・ビバオア島を訪れている。
彼の訪ねた町や通ったバーなど、僕はいつも後を追いかけるように訪問していたが、めずらしいことにタヒチに関しては僕の方が先輩である。とはいえやはり絵を描く人だけあって、ゴーギャンの足跡を追っている。ぼんやり海をながめながらヒナノビールを飲んでばかりいた輩とはちょっとちがう。
そもそも僕は「何もしない」をしに行く旅だったのでパペーテとボラボラ島以外は訪ねていない。複製だらけのゴーギャン美術館に行った気もするが記憶にない。
ちなみに僕はニューヨークに行ったのにストロベリーフィールズを訪ねていない。

2017年6月12日月曜日

一坂太郎『幕末歴史散歩東京篇』

表記といえばやはり外来語の表記は難しい。
以前にも書いたけれど本来日本語ではない言葉を日本語に置き換えるわけだから誤差が生じるのは致し方ない。最近ツイッターやインスタグラムに投稿する際のハッシュタグで迷うことが多い。
たとえば#ラーメンと#らーめん。これはカタカナ表記するかひらがな表記するかだけの違いだからまあどちらでもよい。汁物のラーメンは日本で生まれた文化だかららーめんと書くのも一理ある。もちろん拉麺と表記することもあるだろう。漢字にしておくことで翻訳というワンクッションを避けるねらいもあろう。Babyと書いておけばベイビーでもベイビィでもベイベでもそのニュアンスは読み手にゆだねてしまえる。
焼売はどうだろう。これもシューマイかシュウマイで迷う。携帯電話をケイタイとするかケータイにするかに近い感触をおぼえる。シューマイはどうも軽薄な気がする(実にどうでもいいことであるが)。インスタグラムのハッシュタグで多数派は#シュウマイである。僕もカタカナで書くならシュウマイの方がいいと思っている。ただし、炒飯はチャアハンではなくてチャーハンだろうというご批判もあるだろう。それもよくわかる(わかったところでどうしようもないのだが)。
中公新書の『幕末歴史散歩東京篇』を読む。著者はもともと山口県の学芸員だったそうだ。仕事の合間や出張のついでに訪ね歩いたのだろう。膨大な史跡コレクションには感服する。
落語「居残り佐平治」、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の舞台となった品川宿の土蔵相模の復刻模型が品川歴史館にあることを知る。東京到る処史跡ありだ。
ところで外来語ではないのだが、冷やし中華は冷し中華か、冷やし中華で悩むことがある。初夏の訪れを告げるいわゆる「はじめました」の貼り紙には冷し中華が多い気がしているが、インスタグラムのハッシュタグでは#冷やし中華の方が多数派である。
ほんとうにどうでもいいことではあるが。

2017年6月6日火曜日

関川夏央『昭和時代回想』

先日ある動画を編集していたときのこと。
何か気になるところはありますかと意見を求められたので、インタビューシーンのテロップ「良かった」は「よかった」の方がいいんじゃないかと言ってみた。ディレクター氏がここのインタビューではひらがなが続くのでここは漢字にしておきたいというのでじゃあそうすればと答えた。ひらがなが線路のようにどこまでも続こうが「良い」は「よい」もしくは「いい」であると個人的には思っている。もちろんこれはあくまで個人的な話なので他人様に強要することではない。
個人的な話を続けると「何々するとき」「なになにしたこと」は「する時」「した事」と表記しない。ひとつに文章が古くさく感じられるせいだが、もちろん個人的な話だ。
長いこと広告制作の仕事にたずさわっていると印刷媒体にくらべると映像媒体の制作者の方が漢字を使いたがる。テレビという限られたスペースで文字数を節約しようとの配慮だったかもしれない。僕が個人的にあまり漢字を多用しないのは漢字をあまり多用した文章を読む機会が極端に少ないからだ。
わざとらしい漢字表記もいかがなものかと思う。「おいしい」を「美味しい」と書くのはちょっと恥ずかしい。「はやり」を「流行り」とするのは何となく気が利いていると思う。
関川夏央がふりかえる昭和が好きだ。昭和をいとおしむ姿勢と視線が好きだ。
これまで読んできた筆者の本にはほとんど言及されていなかった彼自身の昭和も描かれている。僕が生まれ育った時代、その10年前に思いを馳せてみる。昭和は案外いいやつな顔をしてそこにたたずんでいる。
関川によれば戦後昭和は15年刻みでその相を変えているという。終戦から昭和35年までの混乱と復興の時代。35年から50年までの高度経済成長とその挫折の時代。さらに昭和の終焉とバブル景気の時代。非常にわかりやすい分類だ。
あっという間に過ぎ去っていった昭和。今にして思えばなんてもったいないことをしたか。

2017年6月2日金曜日

内田百閒『阿呆の鳥飼』

黒沼真由美というアーティストがいる。
学生時代は油画を専攻していた。大学院修了後テレビCMの制作会社で企画にたずさわりながら、どちらかといえば立体の造形に関心が移っていったようだ。正直に言ってひと目見ただけではよくわからないオブジェをつくっていた。
あるとき目黒寄生虫館を訪れた際、何か閃いたのだろう、レース編みでサナダムシを編み上げた。以後レース編みを駆使してミジンコやらセミやらクラゲなどをつくっている。
もともと生き物が好きだったのだろう。隻眼の猫を飼い、競馬中継を丹念に視聴し、セミの抜け殻を集めていた。疾駆する競走馬の筋肉の動きをスケッチしたりしていた。
普通の人には見えないものが見えている。それが芸術家の芸術家たる所以ともいえるが、そういった資質を彼女は持っていた。動きから構造が見えてくる。その逆もある。しくみから動きが見えてくる。もちろんそんなことは凡人には見えてこない。長いこと同じ職場で仕事をしていたが、幸か不幸かさして影響を受けることもなった。ただひとつ黒沼真由美の影響をあげるとすれば内田百閒を読みはじめたことかもしれない。
『阿房列車』を皮切りに内田百閒との旅がはじまった。
鉄道や列車はもともと好きだったので思いのほか苦も無くこのとっつきにくい先生と親しくなることができた。用もないのに列車に乗りに行くことが正当性のある行為であるということもおしえてもらった。百閒先生は黒澤明監督「まあだだよ」でかつての教え子たちに「せんせい!せんせい!」と呼ばれている。僕もおそらくそのなかのひとりだと思っている。そして先生は鉄道だけでなく、猫だけでなく、小鳥に関しても阿呆だとこの本におそわる。そういえば映画の中で先生は鳥かごをだいじそうに運んでいたっけ。
この本には小鳥に限らず、小動物を愛でる百閒先生の気持ちが随所に描かれている。思わず涙が浮かぶ。笑みがこぼれる。まるで黒沼真由美の毎日を見ているようである。

2017年5月24日水曜日

城山三郎『指揮官たちの特攻』

九段坂上の高校に入学して間もなく、靖国神社を訪ねる機会があった。
当時は遊就館なる展示施設はなかったように記憶しているが、そこで見た人間魚雷には強烈な印象が残っている。誰が何のためにつくったものなのか。しばらく思考回路がはたらかなかった。
人類の歴史は戦争の歴史でもあり、それはすなわち殺戮の歴史だった。さまざまな方法で人は人を大量に殺してきたのだ。ナチスドイツによる大量殺人や中国大陸における日本軍の大虐殺は決して許される行為ではない。戦勝国といわれた連合国側だって無差別爆撃を繰り返したその罪はぬぐいきれるものではない。
特別攻撃隊という組織にとりわけキリスト教の国々は恐怖したという。生身の人間の生命を賭して戦うという倫理観がそもそも受け容れられなかった。今でいう自爆テロだ。
日本には古くから武士道という教えがあった。生きて虜囚の辱を受けずという戦陣訓もあった。しかしそれは生きて戦うことを前提にしている。
かつてこの国でテロリズムの萌芽的思想があったと思うと恐ろしい。この国は人間の国ではなかったのか。神風特別攻撃隊では多くの若者が志願したというが、それは真実ではない。志願せざるを得ない状況に追い込まれた人間が志願したのだ。それは志願とはいえない。
放っておいたら、美化されてしまうかもしれない伝説に危惧の念を抱いた城山三郎は史実を丹念に集めた。特攻の真実を後世に残すことで愚かな戦争の犠牲者となった若者たちへ鎮魂の歌を捧げた。
誰もが特攻の無意味さを知っていた。誰もが生命を犠牲にすることの無意味さを知りながら出撃していった。そして誰もが無念のうちに死んでいった。
日本はテロの国ではなかった。城山三郎はどんなに苛烈な軍国思想の下にあっても日本は人間らしさを失わない国だったと伝えたかったのではなかったか。そうした人間らしさを持った国こそがほんとうの「美しい国」なのではないだろうか。

2017年5月22日月曜日

関川夏央『寝台急行「昭和」行』

毎年、夏になると南房総に出かけた。
両親の実家があって、海辺の町で何日かを過ごす。子どもの頃は祖父が迎えに来て、両国駅の「下の」ホームから千倉駅に向かった。房総方面の列車の始発駅がなぜ両国だったのか、両国駅には総武線が発着する高架のホームの下にどうしてホームがあったのか、そんなことを知る由もなかった昔のことだ。
ものごころつく頃には南房総はちょっとした夏の観光スポットで内房、外房という急行列車に代わってさざなみ、わかしおという特急列車が走るようになった。そして夏の繁忙期には季節列車や臨時列車が増発された。時刻表には夏ダイヤの特設ページが設けられた。そんなわけで少なくとも年に一度は時刻表を購入していた。
時刻表から学んだことは大きい。鹿児島に川内という駅(地名)がある。時刻表をながめる習慣がなければおそらく一生「せんだい」とは読めなかったと思う(その後原子力発電所で全国的に知られるようになったのだけれど)。駅名と数字(発着時刻)の羅列が思わぬ想像力を育んだりする。たとえば日帰りで人はどこまで行って帰って来られるのかなどというシミュレーションは時刻表なしにはできない遊びだ。
鉄道趣味の世界は奥が深い。以前読んだ『汽車旅放浪記』で関川夏央の実力に恐れをなしたが、彼以前には宮脇俊三、内田百閒とそうそうたる名前が連なっている。毎年のように房総半島を列車で往き来してきたのに、小湊鉄道も木原線(いすみ鉄道)も久留里線も乗ったことがない僕なんてまだまだ初心者とも言えない。
それにしても列車に乗るって楽しい。遠くに行くのはたいへんだから、まずは近いところから乗りつぶしていきたいとずいぶん前から思ってきた。それで八高線や相模線、鶴見線、御殿場線、つくばエクスプレスに乗りに出かけた。もちろんただ乗りに行くだけの阿呆列車の旅である。そのうちもう少し足をのばして身延線、両毛線、烏山線あたりを乗りつぶそうと思っている。

2017年5月16日火曜日

佐高信『城山三郎の昭和』

東京六大学野球春季リーグは混戦になった。
第五週を終えたところで東大以外の五校が勝ち点2で横一線に並ぶ。第六週は明治と慶應、立教と早稲田によるサバイバル戦。法政は勝ち点2を上げてはいるものの、すでに4校と対戦を終え、東大戦を残すのみ。この週で勝ち点を3にしたチームに優勝争いは絞られる。
今季投打にバランスのいい慶應がまず抜け出す。一発長打力のある岩見や仙台育英で佐藤世那とバッテリーを組んでいた郡司、センスが光る柳町らが経験の浅い投手陣を盛り立てている。明治に連勝して優勝に望みをつないだ。
早稲田立教は3戦までもつれ込んだ。初戦は投手戦。浦和学院のセンバツ優勝投手小島が完璧な投球で早稲田が先勝。2回戦は両チーム合わせて24安打の打撃戦を立教がサヨナラ勝ちした。
そして3回戦。先発投手は小島、田中誠と1回戦と同じだったが、こんどは立教田中が辛抱強く投げ勝った。早稲田は6回の集中打を食い止められなかったのが痛かった。5回の裏の小島の打席で代打を送るという選択肢もあったかもしれない。
これで次週第七週、立教が勝ち点を上げれば優勝。もし立教が勝ち点を落として、最終週慶應が勝ち点を上げると慶應が優勝となる。
先日読んだ『落日燃ゆ』がおもしろく、それまであまり関心のなかった城山三郎に興味を持つ。
昭和2年生まれという。世代としては僕の父や伯父と変わらない。志願しなければ戦場に送られることのなかった世代だ。ところが城山は帝国海軍に志願入隊する。特攻隊に配属される。経済小説というジャンルを切り拓いた作家としか知らなかった城山三郎に俄然興味がわく。タイトルに魅せられてこの本を手にとってみた。
子どもの頃、僕たちのまわりにいた大人たちはみな戦争を経験していた。それぞれが自らの戦争を語ってきた。
城山三郎の戦争ときちんと向きあいたいと思った。
ところで立教も慶應も勝ち点が取れなかったらどこが優勝するのだろう。

※東京六大学野球連盟のホームページで確認したところ、第六週明治法政ともに2勝0敗、最終週早大2勝1敗で明治法政のよる同点決勝ということがわかりました。お詫びして訂正いたします。

2017年5月9日火曜日

城山三郎『落日燃ゆ』

五月の連休は南房総を訪れる。
墓参りというか草刈り、草むしりのためだ。海水温がまだ高くなく、風が乾いているせいか、この時期空も海も青い。ここは南房総市白浜町の東端の集落乙浜。西に隣接するのが千倉町白間津。白間津には母の実家の墓がある。
この時期なにかとニュースになるのが憲法改正論議。社会科学全般(というより学問全般)が苦手だ。日本国憲法をどうしたらいいかなんて訊かれてもまともな返答ができない。たしかに防災や国防の対応面で現在の憲法では足りないところがあるという見解を否定はしない。将来起こり得る事柄に対して準備できている方がいいに決まっている。現状欠落しているところがあれば修正するべきだろう。
戦前の憲法では統帥権を天皇大権と定めたことが後々の歴史に大きく影響を与えた。拡大解釈された統帥権が軍部の暴走を生んだ。それを止める手立てもなかった。
そんななか、武力衝突より外交でと戦争を避けるべく戦った宰相がいた。広田弘毅である。聡明な外交官であった広田は帝国憲法の弱点をおそれていた。粘り強い交渉を重ねることで諸外国との摩擦を避け、軍国主義に傾斜する流れを食い止めようとした。
結果は見るまでもなく歴史が明らかにするところである。
極東軍事裁判で広田は文官としてただひとり、絞首刑の判決を受ける。
あれほど平和外交を貫いた人物が何故に、と思うのが正直言った気持である。広田はこの(不当とも思える)裁判で沈黙を守り続けた。何かを証言することで自分以外の何者かに害が及ぶのを避けたという。
それは広田の生き方だったから、ここでどうこう言ってみても仕方のないことだが、彼が裁判の場でなにがしかの証言をしていたならば日本は今ここにある国とはちがっていたような気がする。日本人はただただ侵略に明け暮れていたのではなく、国益と平和のための外交手腕を持った民族であるという証を歴史に残せたのではないか。
今さら言っても仕方ないけど、そんな気がする。

2017年4月27日木曜日

平松洋子『ひさしぶりの海苔弁』

高校時代、毎日毎日母はお弁当をつくってくれた。
部活動の仲間と昼休みに練習をする都合上、二時間目と三時間目のあいだにその弁当を食べ終わり、三時間目と四時間目のあいだの休み時間に食堂に走って蕎麦を流し込む。ほぼそんな毎日だった。二段になった海苔弁は母の得意技だった(かどうかはわからないけれど)。
海苔弁がブームになっている(と、テキトーに言っている)。
この本で平松洋子が食した東京駅グランスタ紀ノ国屋の海苔弁は、というより紀ノ国屋がすでにない。代わって海苔弁界のスターに押し上げられているのは福島県郡山駅の駅弁、福豆屋の海苔のりべんであるという。JR東京駅構内のお弁当屋で売られているというが実物を見たことがない。一日何十個だか限定で発売されている上、値段も駅弁としては900円と安く、さらにはテレビ番組で幾度か取り上げられている。平日午前東京駅に着いて、駅弁屋をのぞいてみてもそれらしき弁当はない。これはもしや幻の弁当なのか。あるいは世の中の酸いも甘いも知り尽くした大人にだけ見えて、僕のような少年の心を持った人間には見えないのだろうか。
駅弁などというものは行った旅先で食べるからいいのであって、いくら東京駅に全国の駅弁があるといってもそんなところで買うのはフェアじゃない気もする。どうせ食べるのなら郡山に行こう。とりあえずそう思うことにした。
でもたまたま立ち寄った東京駅でひとつでも残っていたら走り込んで買うだろうわが姿もまったく想像できないわけではない。人間の行いというのものはその場になってみなければわからないものなのである。
先日、銀座にGSIXという新たな商業施設がオープンした。かつて松坂屋というデパートがあった場所だ。そのなかに刷毛じょうゆ海苔弁山登りというテナントが入っている。ちょっと高級そうな海苔弁を売っている(値段は1,080円とそれほどでもないが)。
いややはり郡山の海苔弁を食べてみたい。

2017年4月25日火曜日

獅子文六『コーヒーと恋愛』

昨秋に続いて春季高校野球東京都大会決勝戦は早実対日大三。
4月23日が決勝戦の予定だったから本来ならもう終わっているはずだが、4強にセンバツ出場の両校が進出した時点で日程が変更された。22日に神宮第二球場で予定されていた準決勝2試合を同球場で22日に1試合、23日に1試合とし、決勝戦を27日の18時から神宮球場で行うことになった。狭い神宮第二では観客の収容人数に問題があるし、応援団の入れ替わりだってたいへんだ。しかも早実、日大三はともにかつて新宿区、港区にあった学校であり、夏の大会などで対戦するときは毎度のことながらスタンドが超満員になる。西東京の地元だけが応援する学校ではないのだ。ましてや今春ともにセンバツに出場し、この夏はどちらが甲子園に行くのか今から注目されている。神宮第二での決勝戦をいちはやく諦めたのは無難な選択だったと思う(昨秋の決勝戦では多くのファンがチケットを求めて外苑の銀杏並木まで並んだらしい)。
秋は東京六大学野球終了後、明治神宮大会までのあいだの土日ないしは文化の日に日程を組めば神宮球場で決勝戦ができる。春はそうもいかない。平日昼は学生野球、夜はプロ野球の日程が組まれている。準決勝からできるだけ日程を空けてあげることを考えると27日神宮でのナイター決勝戦は妥当なところか。翌28日はプロ野球が予定されているし、29、30日は東京六大学野球も組まれている。
獅子文六は4冊目。今回もちくま文庫のツイートにまんまと乗せられてしまった。
『てんやわんや』『自由学校』では終戦から復興が背景にある。この本は『七時間半』の少し後に書かれている。高度経済成長=新しいニッポンのはじまりが舞台だ。なんてったってヒロインはテレビタレントだもの。そうした点では著者の晩年の作品といえよう。
それにしても27日の決勝戦が国士館対帝京でなくてよかった(両校を応援していた方々には申し訳ないと思うけど)。