2017年5月24日水曜日

城山三郎『指揮官たちの特攻』

九段坂上の高校に入学して間もなく、靖国神社を訪ねる機会があった。
当時は遊就館なる展示施設はなかったように記憶しているが、そこで見た人間魚雷には強烈な印象が残っている。誰が何のためにつくったものなのか。しばらく思考回路がはたらかなかった。
人類の歴史は戦争の歴史でもあり、それはすなわち殺戮の歴史だった。さまざまな方法で人は人を大量に殺してきたのだ。ナチスドイツによる大量殺人や中国大陸における日本軍の大虐殺は決して許される行為ではない。戦勝国といわれた連合国側だって無差別爆撃を繰り返したその罪はぬぐいきれるものではない。
特別攻撃隊という組織にとりわけキリスト教の国々は恐怖したという。生身の人間の生命を賭して戦うという倫理観がそもそも受け容れられなかった。今でいう自爆テロだ。
日本には古くから武士道という教えがあった。生きて虜囚の辱を受けずという戦陣訓もあった。しかしそれは生きて戦うことを前提にしている。
かつてこの国でテロリズムの萌芽的思想があったと思うと恐ろしい。この国は人間の国ではなかったのか。神風特別攻撃隊では多くの若者が志願したというが、それは真実ではない。志願せざるを得ない状況に追い込まれた人間が志願したのだ。それは志願とはいえない。
放っておいたら、美化されてしまうかもしれない伝説に危惧の念を抱いた城山三郎は史実を丹念に集めた。特攻の真実を後世に残すことで愚かな戦争の犠牲者となった若者たちへ鎮魂の歌を捧げた。
誰もが特攻の無意味さを知っていた。誰もが生命を犠牲にすることの無意味さを知りながら出撃していった。そして誰もが無念のうちに死んでいった。
日本はテロの国ではなかった。城山三郎はどんなに苛烈な軍国思想の下にあっても日本は人間らしさを失わない国だったと伝えたかったのではなかったか。そうした人間らしさを持った国こそがほんとうの「美しい国」なのではないだろうか。

2017年5月22日月曜日

関川夏央『寝台急行「昭和」行』

毎年、夏になると南房総に出かけた。
両親の実家があって、海辺の町で何日かを過ごす。子どもの頃は祖父が迎えに来て、両国駅の「下の」ホームから千倉駅に向かった。房総方面の列車の始発駅がなぜ両国だったのか、両国駅には総武線が発着する高架のホームの下にどうしてホームがあったのか、そんなことを知る由もなかった昔のことだ。
ものごころつく頃には南房総はちょっとした夏の観光スポットで内房、外房という急行列車に代わってさざなみ、わかしおという特急列車が走るようになった。そして夏の繁忙期には季節列車や臨時列車が増発された。時刻表には夏ダイヤの特設ページが設けられた。そんなわけで少なくとも年に一度は時刻表を購入していた。
時刻表から学んだことは大きい。鹿児島に川内という駅(地名)がある。時刻表をながめる習慣がなければおそらく一生「せんだい」とは読めなかったと思う(その後原子力発電所で全国的に知られるようになったのだけれど)。駅名と数字(発着時刻)の羅列が思わぬ想像力を育んだりする。たとえば日帰りで人はどこまで行って帰って来られるのかなどというシミュレーションは時刻表なしにはできない遊びだ。
鉄道趣味の世界は奥が深い。以前読んだ『汽車旅放浪記』で関川夏央の実力に恐れをなしたが、彼以前には宮脇俊三、内田百閒とそうそうたる名前が連なっている。毎年のように房総半島を列車で往き来してきたのに、小湊鉄道も木原線(いすみ鉄道)も久留里線も乗ったことがない僕なんてまだまだ初心者とも言えない。
それにしても列車に乗るって楽しい。遠くに行くのはたいへんだから、まずは近いところから乗りつぶしていきたいとずいぶん前から思ってきた。それで八高線や相模線、鶴見線、御殿場線、つくばエクスプレスに乗りに出かけた。もちろんただ乗りに行くだけの阿呆列車の旅である。そのうちもう少し足をのばして身延線、両毛線、烏山線あたりを乗りつぶそうと思っている。

2017年5月16日火曜日

佐高信『城山三郎の昭和』

東京六大学野球春季リーグは混戦になった。
第五週を終えたところで東大以外の五校が勝ち点2で横一線に並ぶ。第六週は明治と慶應、立教と早稲田によるサバイバル戦。法政は勝ち点2を上げてはいるものの、すでに4校と対戦を終え、東大戦を残すのみ。この週で勝ち点を3にしたチームに優勝争いは絞られる。
今季投打にバランスのいい慶應がまず抜け出す。一発長打力のある岩見や仙台育英で佐藤世那とバッテリーを組んでいた郡司、センスが光る柳町らが経験の浅い投手陣を盛り立てている。明治に連勝して優勝に望みをつないだ。
早稲田立教は3戦までもつれ込んだ。初戦は投手戦。浦和学院のセンバツ優勝投手小島が完璧な投球で早稲田が先勝。2回戦は両チーム合わせて24安打の打撃戦を立教がサヨナラ勝ちした。
そして3回戦。先発投手は小島、田中誠と1回戦と同じだったが、こんどは立教田中が辛抱強く投げ勝った。早稲田は6回の集中打を食い止められなかったのが痛かった。5回の裏の小島の打席で代打を送るという選択肢もあったかもしれない。
これで次週第七週、立教が勝ち点を上げれば優勝。もし立教が勝ち点を落として、最終週慶應が勝ち点を上げると慶應が優勝となる。
先日読んだ『落日燃ゆ』がおもしろく、それまであまり関心のなかった城山三郎に興味を持つ。
昭和2年生まれという。世代としては僕の父や伯父と変わらない。志願しなければ戦場に送られることのなかった世代だ。ところが城山は帝国海軍に志願入隊する。特攻隊に配属される。経済小説というジャンルを切り拓いた作家としか知らなかった城山三郎に俄然興味がわく。タイトルに魅せられてこの本を手にとってみた。
子どもの頃、僕たちのまわりにいた大人たちはみな戦争を経験していた。それぞれが自らの戦争を語ってきた。
城山三郎の戦争ときちんと向きあいたいと思った。
ところで立教も慶應も勝ち点が取れなかったらどこが優勝するのだろう。

※東京六大学野球連盟のホームページで確認したところ、第六週明治法政ともに2勝0敗、最終週早大2勝1敗で明治法政のよる同点決勝ということがわかりました。お詫びして訂正いたします。

2017年5月9日火曜日

城山三郎『落日燃ゆ』

五月の連休は南房総を訪れる。
墓参りというか草刈り、草むしりのためだ。海水温がまだ高くなく、風が乾いているせいか、この時期空も海も青い。ここは南房総市白浜町の東端の集落乙浜。西に隣接するのが千倉町白間津。白間津には母の実家の墓がある。
この時期なにかとニュースになるのが憲法改正論議。社会科学全般(というより学問全般)が苦手だ。日本国憲法をどうしたらいいかなんて訊かれてもまともな返答ができない。たしかに防災や国防の対応面で現在の憲法では足りないところがあるという見解を否定はしない。将来起こり得る事柄に対して準備できている方がいいに決まっている。現状欠落しているところがあれば修正するべきだろう。
戦前の憲法では統帥権を天皇大権と定めたことが後々の歴史に大きく影響を与えた。拡大解釈された統帥権が軍部の暴走を生んだ。それを止める手立てもなかった。
そんななか、武力衝突より外交でと戦争を避けるべく戦った宰相がいた。広田弘毅である。聡明な外交官であった広田は帝国憲法の弱点をおそれていた。粘り強い交渉を重ねることで諸外国との摩擦を避け、軍国主義に傾斜する流れを食い止めようとした。
結果は見るまでもなく歴史が明らかにするところである。
極東軍事裁判で広田は文官としてただひとり、絞首刑の判決を受ける。
あれほど平和外交を貫いた人物が何故に、と思うのが正直言った気持である。広田はこの(不当とも思える)裁判で沈黙を守り続けた。何かを証言することで自分以外の何者かに害が及ぶのを避けたという。
それは広田の生き方だったから、ここでどうこう言ってみても仕方のないことだが、彼が裁判の場でなにがしかの証言をしていたならば日本は今ここにある国とはちがっていたような気がする。日本人はただただ侵略に明け暮れていたのではなく、国益と平和のための外交手腕を持った民族であるという証を歴史に残せたのではないか。
今さら言っても仕方ないけど、そんな気がする。

2017年4月27日木曜日

平松洋子『ひさしぶりの海苔弁』

高校時代、毎日毎日母はお弁当をつくってくれた。
部活動の仲間と昼休みに練習をする都合上、二時間目と三時間目のあいだにその弁当を食べ終わり、三時間目と四時間目のあいだの休み時間に食堂に走って蕎麦を流し込む。ほぼそんな毎日だった。二段になった海苔弁は母の得意技だった(かどうかはわからないけれど)。
海苔弁がブームになっている(と、テキトーに言っている)。
この本で平松洋子が食した東京駅グランスタ紀ノ国屋の海苔弁は、というより紀ノ国屋がすでにない。代わって海苔弁界のスターに押し上げられているのは福島県郡山駅の駅弁、福豆屋の海苔のりべんであるという。JR東京駅構内のお弁当屋で売られているというが実物を見たことがない。一日何十個だか限定で発売されている上、値段も駅弁としては900円と安く、さらにはテレビ番組で幾度か取り上げられている。平日午前東京駅に着いて、駅弁屋をのぞいてみてもそれらしき弁当はない。これはもしや幻の弁当なのか。あるいは世の中の酸いも甘いも知り尽くした大人にだけ見えて、僕のような少年の心を持った人間には見えないのだろうか。
駅弁などというものは行った旅先で食べるからいいのであって、いくら東京駅に全国の駅弁があるといってもそんなところで買うのはフェアじゃない気もする。どうせ食べるのなら郡山に行こう。とりあえずそう思うことにした。
でもたまたま立ち寄った東京駅でひとつでも残っていたら走り込んで買うだろうわが姿もまったく想像できないわけではない。人間の行いというのものはその場になってみなければわからないものなのである。
先日、銀座にGSIXという新たな商業施設がオープンした。かつて松坂屋というデパートがあった場所だ。そのなかに刷毛じょうゆ海苔弁山登りというテナントが入っている。ちょっと高級そうな海苔弁を売っている(値段は1,080円とそれほどでもないが)。
いややはり郡山の海苔弁を食べてみたい。

2017年4月25日火曜日

獅子文六『コーヒーと恋愛』

昨秋に続いて春季高校野球東京都大会決勝戦は早実対日大三。
4月23日が決勝戦の予定だったから本来ならもう終わっているはずだが、4強にセンバツ出場の両校が進出した時点で日程が変更された。22日に神宮第二球場で予定されていた準決勝2試合を同球場で22日に1試合、23日に1試合とし、決勝戦を27日の18時から神宮球場で行うことになった。狭い神宮第二では観客の収容人数に問題があるし、応援団の入れ替わりだってたいへんだ。しかも早実、日大三はともにかつて新宿区、港区にあった学校であり、夏の大会などで対戦するときは毎度のことながらスタンドが超満員になる。西東京の地元だけが応援する学校ではないのだ。ましてや今春ともにセンバツに出場し、この夏はどちらが甲子園に行くのか今から注目されている。神宮第二での決勝戦をいちはやく諦めたのは無難な選択だったと思う(昨秋の決勝戦では多くのファンがチケットを求めて外苑の銀杏並木まで並んだらしい)。
秋は東京六大学野球終了後、明治神宮大会までのあいだの土日ないしは文化の日に日程を組めば神宮球場で決勝戦ができる。春はそうもいかない。平日昼は学生野球、夜はプロ野球の日程が組まれている。準決勝からできるだけ日程を空けてあげることを考えると27日神宮でのナイター決勝戦は妥当なところか。翌28日はプロ野球が予定されているし、29、30日は東京六大学野球も組まれている。
獅子文六は4冊目。今回もちくま文庫のツイートにまんまと乗せられてしまった。
『てんやわんや』『自由学校』では終戦から復興が背景にある。この本は『七時間半』の少し後に書かれている。高度経済成長=新しいニッポンのはじまりが舞台だ。なんてったってヒロインはテレビタレントだもの。そうした点では著者の晩年の作品といえよう。
それにしても27日の決勝戦が国士館対帝京でなくてよかった(両校を応援していた方々には申し訳ないと思うけど)。

2017年4月23日日曜日

平松洋子『ステーキを下町で』

平松洋子というエッセイストがどんな人なのか知らなかった。
日比谷図書文化館の二階をぶらぶらしていたとき『焼き餃子と名画座』という単行本に目がとまった。おそらくその前に月刊誌『散歩の達人』最新号をながめていて、町中華のコーナーでうまそうな餃子の写真を見たせいかもしれない。
サブタイトルには「私の東京味歩き」とある。川本三郎かと思った。
ぱらぱらとページをめくってみるとおもしろそうだ。借りてみようかと思ったけど貸出カードをうちに置き忘れてきている。とりあえず平松洋子という名前だけおぼえて帰ることにした。帰り途、特に読む本もなかったので電子書籍のサイトで検索してみた。『サンドウィッチは銀座で』と『ステーキを下町で』があらわれた。おもしろいそうだからぽちっと買ってしまった。
というわけで平松洋子との付き合いはさほど長くはない。せいぜい半月程度の間柄だ。ついこのあいだ銀座でサンドウィッチを食べ終わった、いや『サンドウィッチは銀座で』を読み終えたばかりだ。あまりよく知らない著者の方からおいしい話ばかり一方的にいただいているのも大人としていかがなものか思い、こんどはグーグルで検索してみた。
電子化されていない書籍もたくさんある。そのなかに『ひさしぶりの海苔弁』という本の装幀が目に飛び込んできた。表紙イラストレーションも挿画も安西水丸。ああ、これなら知ってる、見たことある。
そうか、海苔弁の人だったんだ。
まだ知り合って(知り合ったわけじゃない、こっちが勝手に知っただけだ)、まだ半月しか経っていないというのに俄然親しみがわいてくる(どうでもいいことだけど歳も僕に近い)。なんだはやく言ってくれればいいのに的な錯覚。安西水丸の『a day in the life』の書評を書いている。きっとただならぬ関係だったのだろう。
それはともかく東向島にステーキを食べに行こう。そして6月になったら有楽町であじフライだ。

2017年4月20日木曜日

平松洋子『サンドウィッチは銀座で』

グルメという言葉が一般に使われはじめたのはいつ頃からだろう。
少なくとも学生時代にそんなしゃれた言葉は流通していなかった。バブル経済とかおそらくそんな時代背景の中で使われるようになったんじゃないだろうか。もちろん昔から美食家であるとか、食通と呼ばれる人がいた。おいしいラーメン、蕎麦、寿司、うなぎ、とんかつ、ステーキなどにやたらと詳しい人がいた。
「グルメ」はいわゆるグルメ本とともに普及した。おいしい店は活字になり、写真になり、書店に山積みされた。さらにグルメは映像と音になって電波に乗った。日本全国津々浦々をかけめぐった。温泉とグルメさえおさえておけばそこそこのテレビ番組ができた。
やがてインターネットとソーシャルメディアの時代になる。活字や写植、電波に乗った映像以上の方法量がデータ化されて世界中を飛び回っている。多数決で民主的に決められた最強グルメのお店に連日行列ができる。何時間も並んだ末、スマートフォンやデジタルカメラで撮影されたデータはさらに世界をかけめぐる。
それはそれでいいとして、本当においしいものは食べるその人にとっておいしいものだ。
おいしいものをおいしく食べる人がおいしいものに至るまでの道のり。これこそがソーシャル時代のグルメ情報に著しく欠如している点ではあるまいか。著者が料理を頬張る時空間を共有し、そこに身をゆだねる。そうした追体験を可能にする情報が何よりもおいしい。
昨夜、この本を読み終わって明日(つまり今日)のお昼はサンドウィッチにしようと思った。
仕事場から歩いてすぐに行けるチョウシ屋でダブルコロッケパンとダブルメンチパン。天気もいいことだし、そのまま祝橋公園に腰かけてぺろりと食べてしまった。アツアツのコロッケがうまかった。
やはり東銀座にある映像の編集スタジオに何日もこもって仕事をしていた十数年前を思い出した。
引き続き、『ステーキを下町で』を読みはじめている。

2017年4月19日水曜日

曽根香子『その辺の男には負けないわ』


ずいぶん前の話。民主党の選挙CMのプレゼンテーションをお手伝いした。
CMの提案というのは絵コンテという4コマ漫画のようなボードをつくって完成形をイメージしてもらうのだけれど、そのときイラストレーターに描いてもらった菅直人があまり似ていなかった。鳩山由紀夫はまあまあ似ているのに菅直人が似ていない。時間も限られているのでボードに仕上げて広告会社に確認しに行った。案の定、「菅さんが似てないわよ!」の怒声を浴びた。
プレゼンテーションは翌日。この時点で20時をまわっている。カラーで描いてもらったイラストレーションを修正するのは相当難しい。このあとどう対応しようかと思案している間も「菅さんが似ていない!」と30分に150回ほど浴びせかけられた僕は明日朝まで描き直して来ますと引き下がるしかなかった。イラストレーターに再発注することもできず、僕は夜を徹し、ひとりで描き上げ、着彩した。
「菅さんに似てない」と、月に35日降る屋久島の雨のように浴びせかけた人が曽根香子である。
はじめて会ったのは平河町のおでん屋だった。おしゃべりだけどバイタリティあふれる女性だと思った。酔ってスペイン語を話していた。
それ以降、幾度となく曽根香子の提案の手伝ってきた。
直観に優れている彼女は、本書に書かれているとおり、これと決めたゴールに突き進む。時間もないし、これくらいでいいだろうと思ったのがいけなかった。曽根香子は自分で決めたことに嘘がつけない。志に一途な人なのだ。僕は今でも言い訳めいたことばを繕って逃げようとした自分を恥ずかしく思っている。
これまで曽根香子の友人を何人も紹介してもらった。こういってはなんだが、彼女にはもったいないくらい素敵な人ばかりだった(汗)。
この本には著者にとってばかりではなく、世間一般としてみても素晴らしい人物が何人も登場する。一人ひとりがきっと曽根香子のまっすぐな人がらを愛していたのだろう。

2017年4月14日金曜日

内田百閒『東京焼盡』

僕たちの知らない戦争、その終焉を先人たちはどう迎え、受け容れてきたのか。
両親が戦争の時代を生きた僕ら戦争二世はもっとちゃんと次の世代に語り継いでいかなくてはと常々思う。戦前から戦中、そして終戦を経て戦後。こうした時代を背景にした文学や映画が数多くある。終戦直後に限らない。舞台は何十年も経った日々なのに戦争の影が落ちている、そんな作品も多い。創作だけではなく、その時代を生き抜いた作家がどのように戦争という怪物の臨終を見つめてきたかに興味がある。
安岡章太郎『僕の昭和史』、高見順『敗戦日記』、吉村昭『東京の戦争』…、あげればきりがない。
日本の敗戦をつつみ込む重苦しいにおいをもとめて、これらの本を読んできた。そして内田百閒のこの本も同様の期待感とある種の責任感をもって手にとった。
まるで違う。
百閒先生は時代を達観している。下町が焼け、山の手が焼け、日本中が空襲にさらされていようとどこ吹く風のように淡々と日記をしたためる。米がなくなろうが、酒がなくなろうがあわてふためくこともなく、取り乱すこともない。家が焼け、なにもかもが焼けてしまっても。
先日観た映画、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」は松村達夫演じる百閒先生がモデルだった。
5月25日のいわゆる山の手空襲で焼け出されてからは掘っ立て小屋での生活を余儀なくされる。今でいうと千代田区五番町。四谷~市ヶ谷間の土手近くだ。この日記が書かれていたのはこの頃だろう。マッチ箱のようなわずかな空間の中でまるでもうすぐ戦争は終わるであろうと思っていたかどうかわからないが、人生も世の中もすべて見通していたようにさえ思える。
その後番町小学校の北、六番町に居をかまえ、名作を生みだしていく。『ノラや』も『阿房列車』もそこから生まれた。
それにしても内田百閒の中で戦争は呆気なく終わってしまった。先生の心は戦争の終わりよりももっと遠く旅の空の下をさまよっていたのかもしれない。

2017年3月31日金曜日

獅子文六『自由学校』

御茶ノ水駅改良工事が行われている。
地盤強化、耐震補強、バリアフリー化をはかる工事だそうである。御茶ノ水駅といえば足下に神田川が流れているが、この川が江戸時代初期に開削されたことはよく知られている。本郷の台地に無理矢理川を通したものだから、隣の水道橋駅や秋葉原駅のあたりと異なり、御茶ノ水駅は狭隘な地形に位置している。しかも東西を聖橋、お茶の水橋にはさまれている(駅は御茶ノ水だし、橋はお茶の水だし地名の表記は難しい)。工事をするにはやっかいな場所だ。
現在、神田川の上に仮設桟橋を設置している。せまく、急峻な地形のため桟橋をつくって、そこから神田川河岸の耐震補強を行うらしい。聖橋口の駅前広場機能整備まで含めると2020年までかかるというから、かなり大掛かりな工事である。
お茶の水はこの小説ではお金の水と称されている。家を追い出された南村五百助はお金の水橋の袂の土手に住んでいた。今でいうホームレスである。
戦後間もない昭和25年頃、混乱の時代ではあったが、お茶の水の谷間にはのどかな時間が流れていたのではないだろうか。さすがの五百助もこんな工事の最中ではのんびりもできなかったにちがいない。
獅子文六を読むたびに思う、これは映画全盛期の小説だなと。
実際にその作品の多くが映画化されている。澁谷実監督「てんやわんや」、川島雄三監督「特急にっぽん」(原作は『七時間半』)と、これまで読んだ二冊はともに映画になっている(いずれの映画も興味深い)。1950~60年代の映画全盛期は原作に飢えていた時代だったのかもしれない。
『自由学校』にいたってはほぼ同時にふたりの監督が映画化している。吉村公三郎監督(大映配給)と澁谷実監督(松竹配給)。この競作がともに好評を博したというのだから驚きだ。
獅子文六の作品人物はキャラクターがはっきりしているから、活字の世界から実写の世界に飛び出すにはうってつけなのかもしれない。

2017年3月30日木曜日

小沢信男『ぼくの東京全集』

三月も終わりかけたある日、東京駅からバスに乗る。
[都05]という系統番号の晴海埠頭行き。東京国際フォーラム、有楽町駅前を経て銀座を突き抜ける。晴海通りをバスに揺られているとちょっとした観光気分だ。朝から晴れて天気もいい。気温も高い。こんな日は事務所のある築地で降りないでそのまま勝鬨橋をわたって「島」まで行ってみたくなる。ちょうどいい具合に東京駅で買った昼の弁当をリュックに忍ばせている。なんてことはしないでもちろん普通に出社する。
センバツ高校野球は関西勢が強い。昨秋近畿大会と明治神宮大会を勝った大本命履正社のみならず、近畿大会4強の大阪桐蔭、同じく8強の報徳学園の3校が準決勝まで勝ち進み、決勝は大阪対決となった。近畿大会準優勝の神戸国際大付属が初戦突破ならなかったものの、智弁学園、滋賀学園もひとつ勝ち、近畿勢のレベルの高さを思い知らされる。
東京からは早実と日大三。
日大三はいきなり履正社と当たる。主戦投手が最後力尽きて、履正社の猛打を浴び、大敗。昨秋の早実戦に続いて履正社の破壊力を見せつけられた。早実は投手力が課題のままセンバツを迎えた。持ち前の打力だけでは全国は通用しない。
東京は来月1日から春季大会がはじまる。両校ともとりこぼすことなく勝ち進んで、関東大会に駒をすすめられるといい。夏の大会のシード権を逃してしまって神宮に来る前に直接対決ということだけは避けてもらいたいものだ。
ちくま文庫が例によってツイッターでおすすめするものだから、この本を買ってしまった(実は紙の本を買うのは久しぶりなのだ)。興味深そうなタイトル、ながめるだけでわくわくする目次。にもかかわらずあまりおもしろいと思えなかった。作者は詩人であり、俳人であり、目の付け所がユニークなんだけど文章が僕には読みづらかった。いつも読んでいる文章とはちょっとちがう感じがするんだ。もう少しこの著者の本を読んでみてから手にとればよかったかな。

2017年3月27日月曜日

森枝卓士『カレーライスと日本人』

築地のコンワビルの地下にRASAというインドカレーの店がある。
コンワビルは晴海通りに面した銀座松竹スクエアと旧電通本館ビルの間、高速道路沿いにあるビルだ。南側の角に活字発祥の碑がある。明治6年に建てられた東京活版製造所がここにあったらしい。
出版社に勤める友人が「このビルに精美堂という写植屋さんがあって、何度も通った」と言っていた。僕も広告会社にいた頃、新聞広告や雑誌広告のフィニッシュ(版下制作)を精美堂にお願いしていたし、つい数年前にも雑誌広告の製版を依頼した(すでに高輪に移転していたが)。
30年くらい前、築地に大手の広告会社があった(というかそれは電通だ)。制作会社の駆け出しのCMプランナーだった僕は毎日のように築地に出かけていた。午前の打合せが長引いて、昼食を摂る時間がなくなったときはたいていRASAに駆け込んでカレーライスを食べていた。カウンターの左右に目をやるとやはり同じような境遇の人たちがいた。昼食難民化した広告会社の社員か、そこに出入りする関連会社、制作会社の人たち。
その広告会社が築地から明石町、汐留と移転を重ねても、RASAはずっとコンワビルの地下にとどまり、築地界隈の忙しい人種の胃袋を待ちかまえていた。誤解がないように申し上げておくとRASAは決してファーストフードではない。時間に余裕のある人だって訪れる。すべてのお客さんがあわただしくカレーを飲み込んでいくわけではないのだ(ビールの小瓶で喉をうるおす人だってたまに見かけた)。辛さだけではなく、味わいも深い。時間がないときサクッと食べられるだけの店ではない。時間がなくてもおいしいカレーライスが食べられる店なのだ。
カレーライスが如何にして日本の食シーンにあらわれたか、この本を読むとよくわかる。
そういえばカレー好きだった叔父がなくなって3年になる。どうりでこの一週間ほどカレーが食べたくて仕方なかったわけだ。

2017年3月19日日曜日

山本周五郎『深川安楽亭』

本所と深川の境はどのへんなのだろう。
墨田区が本所で江東区が深川という説もあるようだが、墨田区千歳と江東区新大橋、森下あたりの複雑な区界を見るかぎり、そう簡単には線引きができないこともわかる気がする。
本所両国から深川に向かって歩いてみる。
深川は川の名前ではない。徳川家康の時代、この地を拓いた深川八郎右衛門の名前が由来だという。意外な真実だ。沼田という土地があって、沼だらけだからと思っていたら昔この地に住み着いた大豪族が沼田さんだったみたいな話だ。
さて両国から深川に歩くとして、どこを最終目的地にするか。とりあえず深川の最果てにたどり着きたい。ところがやっかいなことに時代とともに深川は海へ海へと進出していく。行政上の区分でいえば豊洲や有明の方まで深川なのだ。
東に目を向けてみる。どうやら横十間川あたりまでが深川でその先は城東と呼ばれる地域らしい。ということで暫定的にというか当然かもしれないが、深川の最果てを越中島とする。両国から越中島までなら歩ける。それに道々楽しそうじゃないか。
両国駅から回向院に立ち寄り、清澄通りを南下する。森下あたりから深川だ。高橋、清澄庭園を経て、門前仲町へ。昭和30年頃の地図では深川門前仲町、深川富岡町、深川越中島と現在の町名に深川が付いている。神田みたいだ。おそらく旧深川区が統合して江東区になったとき、町名に深川を残したいという住民の意見が反映されたせいではないだろうか。
人もクルマもにぎわう門前仲町の交差点を過ぎれば、最果ての地越中島も近い。枝川方面へ左折する交差点の歩道橋の向こうに東京海洋大学(旧東京商船大学)が見えてくる。
深川安楽亭はどこにあったのだろう。抜け荷をする連中が集まる場所だから運河にかこまれた辺鄙なところにちがいない。深川木場あたりかそれとも深川佐賀町か。
そんなことを考えるともなく歩いているといつしか相生橋に差しかかる。
深川の果ては佃島と橋でつながっている。

2017年3月14日火曜日

川端康成『遠い旅・川のある下町の話』

情けない話であるが、ここのところリアルな書店に立ち寄ることがめっきり減った。
そのそもリアルな書店という言い方からしておかしいのだが、リアルじゃない本がこれだけ世の中に流通しているのだから致し方ない。
母の誕生日になるとたいてい本を買う。もちろんリアルな本だ。装幀されていて、表紙があって、見返しがあって、遊び紙があってそれらに触れると紙であることがわかる本。手にとると重さを感じられる本。
先だって、新宿の紀伊国屋書店で母にも読めるような昔の小説はないかと探していたところ、山口瞳の『居酒屋兆治』を見つけた。こういってはなんだけど、紙質もよくなく、粗末な装幀の本だった。もちろん値段もべらぼうに安い。
小学館から何年か前に出版されたP+D BOOKSというシリーズであると知ったのはつい最近のことだ。ペーパーバックス&デジタルの略であるという。全集など大掛かりな書物でなければお目にかかれなくなった名作を気軽に手軽に読んでもらおうという考え方から生まれたのだという。けっこうな企画ではないか。
電子書籍のショップで(もちろんネット上の)“下町”“川”などという検索ワードを打ち込んだところ引っかかってきたのが川端康成のこの本だ。書名の横にカッコ囲みでP+D BOOKSと付記されている。それが気になっていた。
「川のある下町の話」はNという川沿いの町が舞台になっている。
川沿いのN?
具体的な描写がほとんどないせいかとっさにイメージできない。日暮里か、日本橋か。大きな病院がある川沿いの下町というと築地界隈をイメージしてしまうのだが、この辺りは空襲を免れているから、たぶんちがうんだろう。さりとて深川あたりでもなさそうだ。
1955年に衣笠貞之助監督の手で映画化されている。義三は根上淳、ふさ子が有馬稲子、井上民子が山本富士子。まだ観てはいないけれど、これはほぼイメージ通りのキャストである。期待が高まるばかりである。

2017年2月21日火曜日

四方田犬彦『月島物語』

20数年前に月島を歩いた。
月島に住んでいた大叔父が南房総館山に移り住んだ後だ。
中学生の頃、夏休みの工作に必要なラワン材を切ってもらいにおじちゃんを訪ねたのが最後だったか。だいたいこんな本箱をつくりたいのだと紙に描いたところ、おじちゃんはわかったわかったと言って、長屋の向かいにある作業場へ行って木を切るどころか釘まで打って完成させてしまった。ひと晩泊まって翌日出来上がった本箱を持って帰り、砥の粉で目止めしてニスを塗った。あっという間に技術家庭科の宿題は終わった。
おじちゃんの家は玄関の右手に二畳ほどの板の間があった。誰かいるときはたいてい鍵が開いていた。月島の長屋は(全部見てまわっちゃいないけど)ほとんどそうだった。
月島では「おはよう」とか「こんにちは」という日常的な挨拶言葉が発達しなかったという。ガラガラと玄関の引き戸を開けて「いる?」というのが挨拶だった。
四方田犬彦の月島考察を通じて、記憶の土砂に埋もれていた月島がよみがえってきた。
中学生以来ふと立ち寄った月島で、おじちゃんの住んでいた長屋の前まで行ってみた。昔だったら風呂屋の先のガソリンスタンドの脇の路地とすぐにわかったのに、すでに目じるしはなく、不安な思いで入り込んだ。どこからか女性があらわれ、怪訝そうな視線を投げる。
昔親戚がここに住んでいて、近くまで来たのでついなつかしくなって訪ねてきたみたいなことを話す。渡辺さんはずいぶん前に引越しましたよ、千葉の方になどと言う。そんなことは重々承知なのだが、もう住んでいない親戚の家を訪ねてきたという行為はまあ、常識的にも月島的にも理解されなくて当然だ。
大叔父は月島という町を通り過ぎていった人に過ぎず、僕を不審に思った女性だって月島を通り過ぎていくだけの人だろう。ある日突然東京湾にあらわれた埋立地月島はどこからともなく人が集まってきて、やがてどこかへ去っていく、そんなはかない町なのかもしれない。

2017年2月20日月曜日

山本周五郎『人情武士道』

カタカナってのは本当にやっかいだ。
文化庁のホームページに外来語の表記の留意事項がまとめられている。「イ列エ列の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く」のように。つまりグラビア、ピアノ、フェアプレー、アジアとなるということだ。ただし「ヤ」と書く慣用のある場合はそれによる。ダイヤ、ダイヤル、ベニヤ板など。
また語末の-(i)umは(イ)ウムと書くとしている。アルミニウム、カルシウム、ナトリウムなど。ただし「注」としてアルミニューム」と書く慣用もあるとしている。
文化庁のまとめはゆるやかで、ハンカチ・ハンケチ、グローブ・グラブなど表記のゆれに対して寛容であり、分野によって慣用が異なる場合はそれぞれの慣用によればよろしいとしている。
学生時代はvの音を(ドイツ語だとwも)ヴで書いていた。理由はない。いちおう、綴りを知ってますよくらいしか意味のないことと思いながら。ヴィデオとヴォランティアとかヴォイスとか。ところがこれは後で読み返すと結構恥ずかしい。ビデオだろようそれ、と誰かにあざ笑われているんじゃないかと思ってしまうのだ。そういうわけでいつしかヴは使わなくなった。
ただどうしてもヴじゃないと落ち着きの悪い言葉がある。たとえばヴォルテールはボルテールだとちょっと哲学者のシズル感に欠けるきらいがある。フランス語の会話をカタカナ表記するときもコマンタレヴ?とかサヴァビアン、メルシじゃないとフランス語感が湧いてこない(もちろんこんな会話を日常書く機会は滅多にないのだが)。
ということで最近では外来語=日本語として定着している言葉はブ、人名のように本来日本語表記できない言葉や固有名詞はヴと表記するようにマイルールをつくっている。バイオリンだし、ジュール・ベルヌだし、ヴァン・ジャケットだ。
周五郎の初期の短編集。時代物あり、現代ものあり、ミステリアスなものもあり。
ヴァラエティに富んでいる。前歯で下唇を噛んでみる。

2017年2月17日金曜日

浅田次郎『月島慕情』

動画のシナリオや広告コピーを書くことはあるとしても文章を生業にしているという意識はあまりない。
ただ、人様に文章をお見せする仕事をしている以上、表記には気を遣う。とりわけ外来語(カタカナ語)が厄介でJIS(日本工業規格)には「アルファベットをカタカナで表記する場合、2音の用語は長音符号をつけ、3音以上の用語の場合は長音符号を省くと定められいるそうだ。たしかに車はカーだし、コンピューターではなくコンピュータという表記をメーカーはしている。お客様センタと表記する会社もある。複合語の場合は省かないというルールもあって、ハイブリッドカとはならない。ん?メーカーはメーカではないのかな。
文化庁のガイドライン(1991)では外来語の表記として、英語の語末が-er、-or、-arなどに当たるものは、原則ア列の長音とし長音符号「-」を用いて書き表し、慣用に応じて省くことができるのだそうだ。この影響を受けて、JISの規格も2005年以降、長音は省いても誤りではないと修正されたという。そのせいか最近、サーバーとかプリンターとか長音を付けた表記をよく見かけるようになったが、実は文化庁のガイドラインだけではないらしい。
2008年にマイクロソフトが「マイクロソフトの製品ならびにサービスにおける外来語カタカナ用語末尾の長音表記の変更について」を発表した。マイクロソフトの方針転換が大きな影響を及ぼしているらしいのだ。たしかにインストーラよりインストーラーの方がちゃんとインストールしてくれそうだし、ブラウザよりブラウザーの方がゆったり検索できそうな気がする。
しかしだ、これら複数のガイドラインをどうこなしていけばいいのか。ハードウェアとしてはサーバ、その機能の話をするならサーバー。いやいやそんな使い分けをしていたら文章が先に進まない。
浅田次郎の『月島慕情』を読む。再読である。
久しぶりに月島を歩いてみようと思った。

2017年2月16日木曜日

山本周五郎『明和絵暦』

センバツ高校野球の出場校が決まった。春はもうすぐだ。
毎年気になるのは出場枠のあいまいな関東・東京地区。基本は両地区で6校が選ばれるが、それが関東4、東京2だったり関東5、東京1だったり。もちろん秋季大会をいっしょにやってしまえばいいのだろうけれど、センバツに東京の学校が出場できないことだってあり得てしまうわけだから、東京都高野連はなんとしても独立枠を確保したいのかもしれない。
センバツ出場校は全国10地区から選ばれる。地区大会上位が同一府県だったりすると2校出場できる。そのかわり出場できない府県が出てくる。関東は最大5校出場できるが、当然出場できない県ができる。今春は群馬から2校選ばれている。茨城、埼玉、神奈川からの出場校はなし。
そのぶんと言っちゃなんだけど21世紀枠という地区大会の成績にかかわらない独自の基準で評価された学校が選ばれる。合計32校。どんな戦いが見られるか。
周五郎の(おそらく)ファンであろうC書房のTがこの本はまだ読んでいないと言っていた。僕が読んでTが読んでいない周五郎ははじめての快挙である。
刊行は1941年。少年雑誌に時代小説を連載していた頃の作品か。今まで読んできた周五郎とはちょっとちがう。文章が若々しい。主人公の百三九馬も少年漫画の主人公のようだ。腕は立つし、言うこともふるっている。それでいて冷静沈着、周囲をよく見ている。しかも(というか当然というか)女性にはモテモテである。やはりこいつは少年漫画のヒーローだ。
話はセンバツにもどるが、東京からは2校が選ばれた。早実と日大三。接戦をくりひろげた都大会の決勝戦をふりかえると妥当な選択か。先の話になるが、夏の選手権では同じ西東京で1枠を争うことになる。どちらかがセンバツ後の都春季大会でとりこぼしでもしようものなら夏のシード権を失い、神宮にやってくる前に両校の対決もなくはない。
と、とりとめもないことを考えている。

2017年2月6日月曜日

出久根達郎『佃島ふたり書房』

佃に親戚がいたことは何度かここに書いている。
母方の叔父が佃(新佃)に住んでいた。深川から来ると相生橋をわたってすぐ。肉の高砂の裏手になる。
大叔父夫婦はその後月島に引っ越した。僕の記憶のなかで佃はおぼろげだ。
ただ南房総の海辺の町から上京し、大叔父の家に寄宿した母からなんどとなく佃の話を聞いている。その話がいつしか僕の記憶に溶け込んでいる。
母の住んでいた昭和20年代。佃は門前仲町から商船大学の前を通って、相生橋を渡るか、月島に出て勝鬨橋を渡る陸路のほか、「渡し」という船の便があった。上京したばかりの母は明石町にある洋裁学校に通いはじめた。収入があるわけでない居候だから贅沢はできない。橋を渡るには電車賃が要る。住吉神社に近い渡し場から明石町に通った。もちろん銀座や築地に行くわけではないから距離的にも渡しの方が近かったかもしれないが。
大叔父夫婦には子どもがなく、母をだいじにしてくれたという。そのおかげもあって僕もおじちゃん、おばちゃんによくなついた。その頃はもう月島に越していたが、何度も泊まりに行っては、おばちゃんには晴海のプールや築地の映画館に連れて行ってもらったし、おじちゃんとは銭湯に行ったり、夕涼みがてら西仲の商店街を散策しては本を買ってもらったりした。渡しはとっくになくなっていた。たいていは有楽町まで国電で出て、そこから都電に乗った(都電もその後廃止されバスで通うことになる)。勝鬨橋は1967年まで通航のため跳開を行っていたというが実際に見た記憶はない。
佃大橋ができたときには佃の若い衆が神輿をかついだという。そして佃島が橋でつながったその日、ポンポン蒸気は姿を消した。
この本にはそんな遠い日の町の記憶が描かれている。
新富町から若き母の日々に思いをめぐらせながら、何度か佃に渡った。こんど訪ねるときはふたり書房をさがしてみることにしよう。きっと佃の町のどこかでひっそりとねむっているはずだ。